これまでの江漢晩年の研究                       元にもどる
立派な司馬江漢の研究書は数多いが、江漢晩年の引退事情や引退後の江漢についての研究はほとんど行われていない。
江漢の研究は江漢の引退で終わっており、引退後の江漢は、いわば巌流島以降の「それからの武蔵」に等しく、江漢研究の死角になっている。

これまでの研究では「江漢の引退前後」「江漢の最晩年」の章を設けて論じていることが多いが、一般的な見方は次の通りである。
  @江漢は、銅版画や西洋画の先駆者だったが、後継者たちに追い越されて影が薄くなった。
  A日頃の悪口がたたって、蘭学仲間との折り合いが悪くなった。
などが積もって、「何もかも嫌になり」1813年6月突然引退した。

また8月の「ニセ死亡通知」は、世間を騒がせて喜ぶ愉快犯的な事件である。

しかし江漢の書簡や著作を時間順に並べてみると(前章)、引退事件の真相はそれとは違っていることが明らかである。
江漢は焦げ付いた貸金の取り立てに絡んで世間から追求を受け、1813年6月引退に追い込まれた。引退しても世間はなお納得せず、8月に行方をくらますしかなかったのである。
 
中野良夫氏の研究
引退前後の江漢に焦点を合わせたもので、「貸金回収に奔走した」ところまではつかんでいるが、「結局回収に成功しなかったであろう」として打ち切ってしまったため、貸金回収と引退との関係がつかめておらず、「引退後の江漢の住所」の研究にとどまっている。すなわち次の資料の見落としである。
文化十年六月十二日 山領主馬あて書簡 ・・・今以てさはりと(さっぱりと)済不申、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。
無言道人筆記・・・だんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。
江漢は、貸し金120両のうち、約100両の取立てに成功した。あっさりあきらめてしまえば何も起きなかったのに、取り立てに成功したことが江漢晩年人生の不幸を招いたのである。
★東洋文庫:訓蒙画解集・無言道人筆記の菅野氏解説
金銭問題の「整理が十中八九」処理できたとあるが、引退との関係は触れていない。引退の理由は江漢の書簡通り「皆あきはて」とし、銅版画や西洋画の後継者から追いつかれたこと、蘭学仲間との不和などを背景に挙げている。
同じ見方をする江漢研究書がほとんどである。
★引退後の江漢は「西遊日記」を、すぐに印刷屋に渡せる版下の形できちんと整理しながら「板行には出来申さず」として最初から出版をあきらめていた。
西遊日記(東洋文庫)の芳賀氏解説
出版をあきらめていた理由について、個人的すぎる内容、大名との親しすぎる交友、オランダ屋敷への潜入(役人に金をつかませた?)を一応挙げているものの、結局は「謎」としている。もし公表して都合の悪い部分があったのであれば、そこだけをカットして出版すれば済むことである。
江漢研究者は、江漢がすでに世間から葬り去られていたこと−−すなわち出版してくれる版元も、読んでくれる読者もなくなっていたことに気づいていない。
 
江漢後悔記
「有名になろうとして生涯努力してきた結果、有名人であるがために、普通の人なら見逃されるような小さな過ちを世間に騒がれ、人生を棒に振った。なんと馬鹿げたことではないか」(われ名利という大欲に奔走し、名を広め利を求め、此の二に迷うこと数十年、今考うるに、名ある者は、身に少しの過ちある時は、その過ちを世人たちまちに知る者多し、名のなき者誤るといえども知る者なし。この名を得たるの後悔、今にして始めて知れり、愚なることにあらずや。)
は「江漢自身による江漢人生の総括」とも言える一節であり、引退事情を知る最重要資料と思う。
細野氏(S49)
この一節を私と同じ意味に取って取り上げているが、肝心の「普通人なら軽く見逃がされる程度の小さな過ち」を「西遊旅譚の発禁事件」としており、この事件で、江漢は危険人物視されて、友人が次々離れて行き、引退につながったとしている。
発禁事件は1794年、引退は1813年で、あまりにも離れすぎており、因果関係を求めるのは無理である。

もともと江漢の発禁事件とは: 出版物に対する一貫した幕府の禁令の一つが「徳川家とくに大御所の家康を扱ってはならない」というものだった。太閤記の豊臣秀吉は庶民の英雄であり、家康は豊臣の天下を奪った悪者である。そういう扱いをされると具合が悪いので、あらかじめ出版物での徳川家の取り扱いを禁じてあった。江漢は、日本平の東照宮と家康の廟を観光的に扱って挿し絵にしただけである。禁令がそこまで及ぶとは思ってなかっただけであり、役人との法解釈のセンスの違いだけの問題であった。「危険人物視」などという問題ではなかった。

発禁事件が20年後の江漢の引退につながったというのは、無理な話で、その後の研究書では、この一節は取り上げていない。
「小さな過ち・・」の部分をカットして読むと「数十年間、有名にならう、金儲けをしようと努力してきたが、年を取ってから、その馬鹿々しいことに気がついた・・」というだけの話になり、「自主的に引退した」話につながってしまう。そういう読み方をしている研究書もあるが、一番肝心の部分をカットして読むのは言語道断である。
また「小さな過ち」が、単に「有名人であるためにひどい目にあった」という程度の何かの小事件であれば、「有名人たるものは普通人以上に言動を慎む必要がある。」という反省に終わったはずである。この一節は、数十年間の人生目標そのものが直接の原因になって、人生の破滅を迎える結果になったことの馬鹿馬鹿しさについての嘆きなのである。
 
★1813年8月のニセ死亡通知
ほとんどの研究書は「世間を騒がせてよろこぶ愉快犯的な変人の行為」としているが、読みが足りない。引退だけで収まると思ったが、世間が収まらず行方をくらますしかなかった、「2段階の引退」であることが明白である。

不祥事を起こした代議士が先ず「離党届」で済ませようとするが、結局「議員辞職」せざるを得なくなるケース、名目だけの「社長辞職」ではおさまらず、2−3ヶ月後「会社の経営から完全に離れ」ざるを得ないケースなど、「2段階の引退」のニュースが最近とくに多い。
 
高利貸しと貸し金のあくどい取り立てが、社会的/法律的にどこまで許されるかは何時の時代でも微妙な問題である。
1999年の「日栄商工ローン」の事件では、あくどい取り立てが社員の勇み足か、会社の方針かが問題の焦点になり、社長が参考人として国会に呼ばれたりした。会社ぐるみの場合、「一部上場し」、「経団連に加入し」、「国会議員に政治献金している」ような一流会社が、暴力団なみの・・・という言い方でマスコミに非難される。暴力団なら許される?取り立て行為が、一流会社では弾劾されるのである。
「有名人だから問題にされた」という江漢の受け止め方は「高利貸」問題では微妙に違っているのかも知れない。

江戸時代、盲人や後家など他に生活する手段のない弱者の高利貸しは黙認され、公認されていた。
また債務者の家の前に盲人仲間がたむろし、大声を上げていたたまれなくするのは、債権取り立ての常套手段であった。
しかし金持ちが盲人に金を融通し、言い換えれば盲人の名義で高利貸しをすることは、建前だけかも知れないが、禁じられていた。
江漢の場合「大名と対等につきあい」「殿様の子弟に御進講をしている文化人が」「金持ちで何の不自由もないはずの江漢が」・・という形で弾劾されれば言い訳が立たない。

江漢の代理人である左内は「何度も行き」「だんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得」ている。借りた側はもともと、差し迫ってどうしようもなくて借りたものであり、返す当てがあって借りたものではない。「小金を借りるものは身迫り如何ともすべきことなく借りる故に返す了見なし。」
その中で百両の金を「責め取る」ことに成功したのだから、その陰には「娘の身売り」や「生活手段を奪われての一家離散」など悲惨な出来事もあったのだろう。追いつめられた債務者が「窮鼠猫を噛む」で世間に向かって、黒幕の江漢を名指しで非難するという対抗策に出たのであろう。

江漢は左内に金を融通して高利貸しをさせ、高金利の一部をピンハネして老後の安定した小遣いに充てようと計画した形跡さえある。さらに左内を名目上でも「世継ぎ」にしたとなると、いわゆる「秘書」の勇み足として言い逃がれることも出来ない。

予左内へ云曰く、吾金預け置しに取ず、汝この金を取りなば汝に預け、また汝を世継ぎにすべし、この金百余あり。彼考え思う、百金を高利に貸すときはたちまち千金になるべしと思い、早速承知し、・・それよりだんだんと貸したる金を責め取り、ついに百金を取り得て今残り二十両となる。しかるにその百金を諸々に貸し付け、吾は隠居所を建て置き、養い毎月金2カンと贈る也(原文のまま)、然し是は善知には非ず。
自主的な引退であれば、作品を発表したり著作を刊行したりすることは出来るし、その気になればどんな名目でも復帰も可能であるが、江漢のように不祥事で引退に追い込まれ、世間から葬り去られた場合の復帰は絶望的である。
進行していた「和蘭奇巧」の出版話も流れ、「西遊日記」が出版される望みはなかった。江漢は「後の世に残すことのみを楽しみに」絵を描き続ける。読者が居ないままに書き続ける引退後の江漢著作が老荘思想に傾くのは当然であった。
江漢の死去(1818)の際も、遺作の発表に奔走してくれる人もいなかった。江漢はそのまま明治初年まで忘れ去られたままであった。
引退直前の江漢
●京都に行く前年の書簡を見ると、江漢は「真の西洋画を世に知らしめるのが私の勤めである」など、意気軒昂である。
●京都での江漢は、京都の文人会などにゲストとして招かれ、ちやほやされてよい気分になっている。京都が気に入って、京都に永住してもよいと思い始めている。引退しそうな気配はまったくない。
1812年までの江漢人生は順風満帆であった。1813年、それが突然狂ってくるのは、直前の出来事が原因である。
江漢は若いとき貧乏で、金に苦労している。こういう環境で育った人は、老後の暮らしなどを真剣に考えるもの。作品を貯め「最後の頒布会」などである程度の金を作ってから引退するであろう。突然の引退はイメージに合わない。
 
わたしはこれまで、江漢研究者が江漢をかばって、惨めな晩年に触れないようにしているのだとばかり思っていたが、以上のいくつかの研究から考えると、江漢研究者は、江漢の引退事情が本当に分かっていなかったらしい。
江漢研究が盛んだった昭和50年代は、まだバブルがはじける前で、上記のような「不祥事」で深々と頭を下げる光景が新聞/TVを賑わすことのなかった時代である。江漢研究者を世間知らずというのは酷かも知れない。

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