資料: 蒲原の写生場所
−−広重研究者や東海道愛好家の疑問                              
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 近藤市太郎 世界名画全集別巻  「広重東海道五十三次」解説 S35 平凡社

さて保永堂版東海道の蒲原は、全広重作品中最高の傑作として知られている。雪が音もなく降りしきる。もう夜はだいぷ更けているのであろう。みのをきた人、傘をかざした人も寒そうに坂を歩いて行く。雪の夜のしんしんとした静けさをこの絵ほど印象深く表現した作品はまたとない。おそらく広重作品中ばかりではなく、浮世絵全般中でも第一の名画と賛美をあたえるにやぶさかではない。

この図が広重第一級の名画であるため、広重の東海道と今の東海道を比較して、その描いた場所をさがしあてようとする多くの美術史家、郷土史家、写真家、新聞記者たちが、この蒲原の図を見て.ハタと行きづまる
現実の風景は、決してこの名画のようには美しくもなければ特徴もないからである。いたって陳腐な、ありきたりの海辺の町である。ある写真家は、この名画が雪景であることをふしぎがり、「このあたりは、雪の降ることは珍しいのだが」とさえ言っている。

映画"広重”の作者は、今の蒲原の町の入口にある寺の屋根にカメラをすえ、左から右へ180度レンズを移行すれば、この名画と同じ構図になるとまことしやかにいう。

しかし私は、その寺の屋根に上っても、どんなに首をまわして風景をながめても、ついに名画蒲原と同じような坂も、.山も、崖も発見することができなかった。広重がながめた時から今日まで百二十年の歳月が流れている。その百二十年の時聞的経過を考慮に入れてもなお一致点を求めることができなかった。しいて「蒲原的」なものをさがし求めうるとしても、それは細長い町の両側に立ちならぷ家だけであった。私は広重の芸術的魔力に魅せられて、それが実際にそこにあるかの如き錯党におちいっていたのである。名画蒲原は、広重の脳裡に夢としてむすばれた空想画といってもさしつかえないであろう。
 徳力富吉郎 「東海道昔と今 」S37(改訂S47)   カラーブックス 保育社

蒲原の町は国道に沿って旧道がよく残っており、昔の街道の面影が十分うかがえる。広重の蒲原は、保永堂版中随一の名版画であり、彼の六十二年の生涯中での最優秀作ともいわれている。東海道は徳川家康によって慶長六年につくられたのであったが、元禄のころ大洪水があって道が流されてしまい、ここ蒲原宿では山添いに別の道を造って新しい海道としたという。広重が歩いたのはその新道であり、今は川の改修その他で坂道がなくなってはいるが、例の広重一流のデフォルメのしかた、と考えれば、確かにモチーフはあるし、古老によれば四十年ぐらい前までは雪も降ったそうである。・・

蒲原の宿では会いたい人があった。蒲原観光協会の結城儀郷さんである。常源寺の和尚でもあったこの人から十年前、筆者の「東海道昔と今」が出たとき、抗議の手紙が舞いこんだのである。
「東海道昔と今」にある蒲原の景は実景になく、広重のイメージから描いたのであろうという説はまちがっているというのであった。

筆者は確かに蒲原の町を端から端までくまなく歩いたのであり、その結果、広重の描いたようなモチーフは見当たらなかったのであった。
しかし土地の人からの真剣な抗議であれば、無視するわけにはいかない。筆者は次の機会に貴地を訪れるようなことがあれば一度案内してほしい。そのうえでまちがいであれば再版のときに訂正すると約束したものである。

爾来十年、常願寺に結城和尚を訪ねる機会を待った。・・・すぐに案内するといわれ、・・和尚のいう広重のモチーフの現場に行った。・・和尚の話では、東海道は・・元禄十二年に洪水が起こって道が流れてしまった・・仕方なく道を山寄りにつけなおし、・・山側の道を通ることとなったのだそうだ。 ・・筆者がかって歩いた道は古いほうの道で、広重の通らなかった道とのことであった。
和尚の先導できて見ると、なるほど広重のモチーフに近い風景(注:挿し絵参照)があった・・・この勝負は筆者の負け、書きなおすこととした。
・・広重の蒲原の前景が坂道になっているのは、以前はここを流れる小川の堤防が高くて、家の軒に届くほどの坂道であったのが、川の改修工事で坂道を取り除いたのだという。

 かって内山晋氏が考証し、前方の山は(御殿山ではなく)城山であるとされた。・・・ただこのような(右に上る)坂はなく、街道が川の土手を越えるために多少の起伏を生じているとされた。                                                                                                                    
土田ヒロミ「広重東海道を歩く」NHK出版(1997) 東海道写真家

蒲原宿と広重の一夜の雪
蒲原宿は国道や鉄道から一歩裏手の山沿いの静かな場所にある。かつてはもっと海際(JR線路の南)に位置していたが、元禄年間の津波のせいで現在の位置に移動した。蒲原といえぱ誰もがまず広重の名作「夜の雪」を思い浮かべるだろう。雪がしんしんと降る夜の宿場を、蓑傘に雪をまとった旅人が寒そうに身をかがめて行きかう。広重の描いた蒲原は、一見すると雪国の景色のようである。しかし蒲原は五十三次のなかでも温かな場所。よりによって雪景色を描くとは広重も奇抜である。ただ、温暖なこの地でも何十年に一度かは雪が積もったらしく、あながち広重の創作ともいえないかもしれない。広重の写生地とされる場所には「夜の雪蒲原宿」と刻んだ大きな記念碑が立っている。だがここから見る風景がまた広重の絵とあまり似ていない。東海道を歩く人にとっては、広重の絵の場所を訪れることも楽しみの一つだろうから、その意味ではすっきりしない気分を味わうかもしれない。とはいえ、蒲原宿は昔の面影がよく残った宿場である』蔀戸(しとみど)や格子戸、なまこ壁などのある古い家が続き、さらに、本陣、木戸(宿の出入り口)、一里塚などの一つ一つにていねいな説明が設けられている。宿の出入り口はカギ型に曲がった枡形遣路である。『膝栗毛』では、弥次・喜多は蒲原でちょうど大名行列の宿泊に鉢合わせた。喜多さんはどさくさに紛れて本陣へ上がりこんでちゃっかり膳に預かり、おまけに弥次さんへの土産に飯を古手ぬぐいに包んで持って帰ってきてしまった。いまではそんな大騒ぎもうそのように、奥ゆかしく控え目な町並みである。

宮川重信: 「新・東海道五十三次(平成から江戸を見る)」東洋出版(2000年発行)

蒲原
現在、この旧道と並行する県道や国道、そして。JRの南側は、工場群となり、すっかり近代化された街となっている。幸いこの旧東海道蒲原宿は、県道とも少し離れ、山裾を通っているため静かで、昔ながらの町並が色濃く残っている。旧街道らしい、この細い道は、アップダウンしながら道脇に迫る民家の間をぬうように進む。三階建ての土蔵を左に見て、すぐその先の両側には、なまこ壁の家があり、小さな川を越すと黒塀や格子戸、蔀戸(しとみど)の家が並んで、一瞬、江戸の町に迷い込んだような気もした。それらと、本陣や旅籠、問屋場跡など、ひとつひとつ実にていねいに木の札を立てて、説明が書かれている。西見附跡までの木戸内一キロほどの細長い町並は、軍も少なく、のんびりとして、両側に並ぶこれら古風な家を一軒一軒見ながら歩く気分は最高である。

同時に、ここ蒲原は、安藤広重の『東海道五十三次』の「夜の雪」の絵があることで有名である。絵は、雪がしんしんと降る夜の宿場を、蓑笠を被った旅人が身をかがめて寒そうに歩く後ろを、反対に下駄履きの村人が傘を半開きにして、杖をついて坂を下って行く。積雪で白くなった坂道や家々、背後の山など、まさに雪国の景である。白と黒の静寂な夜の世界を描いたこの絵は、他に類がなく、広重生涯の最高傑作ともいわれている。とともに西洋の巨匠ゴッホやモネにも大きな影響を与えたという。ただ蒲原は、後ろに山を控え、前に駿河湾を抱いて暖かく、果してこんなに雪が降り積もるようなことがあったのだろうかという疑問があり、この絵を問題にしている者も多い。
広重は、天保三年(1832)の夏、幕府の命で朝廷への御馬献上の一行とともに京へ上がる途次、東海道の風物を写生した。そして翌天保四年に、このスケッチをもとに五十三次の浮世絵を発刊し、爆発的な人気を博した。

私も夏を旅した広重が、どうして雪の景色を描いたのかと思ったが、もともと浮世絵版画は、デフォルメとモザイクであり、その風景画は大きく省略し、印象として描いてもおかしくないのである。だから、広重が五十三次の宿場のなかに、春夏秋冬を描写したり、現実に存在しない風景を描いたりしたのである。ただ生涯一度の、それも幕府の公務に同行しての旅から生まれたものであるから、広重の創造力と技量に驚き、感嘆する方が強い。この「夜の雪」の記念碑は、街道のなかほど、問屋場跡の前を流れる山居沢に沿って百メートルほど下った川の畔にある。「夜の雪、蒲原宿」と彫られた大きな平板状の石で、傍らに広重の絵を銅板のレリーフにして石にはめ込まれた碑もある。広重の絵を記念し、多くの人のために、歴史広場として整備しているので、やがてここが広重の五十三次の絵の発信地になるかもしれない。
山居沢の脇に立って、北の御殿山を正面にした構図が、広重の絵であり、現在、新しい家が建ち並ぶ河畔の風景に変わっても、私は、見知っている広重の絵を思い、心象風景とだぶり、たまらないほど懐かしく感じる。ひょっとすると、温暖なこの地でも、何十年に一度は雪が降ったり、積もったりしたことがあったかもしれない。そんな話を広重が聞いて、自分の絵に取り入れたのだろう。

「夜の雪」の碑から旧道に展って、問屋場跡に自転車を止め、御殿山や音ながらの町並を眺めていると、たまたま近くにいた男性に声をかけたのがきつかけで、その人、金子正義さんに話をうかがった。金子さん宅は、ちょうど山居沢が街道を横切る十字路の角、問屋場跡の向かいで、玄関内の台の上には、蒲原町のパンフレット類が置かれていた。数年前、退職された後も、役場と関わつて、イベント等いろいろ企画しながら、町の活性化のため、ボランティア活動をしている。蒲原宿のなかに住む金子さんは、江戸時代の宿場の様子を、その歴史的、文化的なものの保存の大切さと、それらが残るこの宿場の将来像を熱く語った。とりわけ、広重の「夜の雪」の絵がここで描かれたことのこだわりは強く、宿場のあちこちを指さしながら、いっしょに歩き、まるで自分が広重であるかのように、ここからこうして、と絵の構図を話してくれた。
このように私ばかりでなく、訪ね来る人に話をされる金子さんは、先日も「夜の雪」のことでテレビに出たり、歴史の町並みをもつ他市へ視察に行ったりして、歴史風土を大切にする町の推進に大きく貢献している。

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 これまでの「広重写生地点」 新蒲原駅(蒲原宿)に立派な広重写生場所記念碑がある。
 家並の後ろに2段になった山があるだけの単純な地形で、広重図の地形と似ていないことで有名。  
徳力徳太郎:東海道 昔と今 挿し絵

      
   右へ進むと、富士川の河川敷に向かって下る地形なので、上り坂の説明に地元は苦労している。

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