川崎 再刻版                               目次へ  
川崎にも発売の数ヶ月後に改訂された再刻版の謎がある。
改訂箇所はいくつか指摘できるが、いずれも大した内容とは思えない金と手間を掛けて改訂した理由がこれまでまったく見当がつかず、誰からも「仮説」すら提案されなかった難問であった。
 
初刻 再刻版
改訂箇所:  1)輪郭線のない白抜きの富士山、2)筏の船頭が消えた。3)屋根の形 
4)船頭の姿勢(弓なりで水面を見る→→舟の方向を見る。5)着物の赤色がなくなり、地味になる。
江漢図と並べて見れば、答えは一目瞭然。

「白抜きの富士」「筏の船頭」「屋根の形」「船頭の姿勢」など再刻版は江漢図とすべて一致している。(広重の手元には江漢図があったことを示す。)

広重は「江漢図の通りに版画の原画を作る」という仕事を指示されていた。広重が「少し工夫を加えた」部分が、「関係者」の気に入らず、最初の指示通りに江漢図そっくりに描き直しさせられたということになる。
広重は命じられた通りに作業をし、命じられたとおりに改訂しただけのようである。
  広重 木曾街道六十九次「洗馬」 部分 広重の立場
少なくとも五十三次当時の広重は「押しも押されもせぬ大先生」ではなく、出版先から依頼された仕事をこなしている若い一職人に過ぎず、版画の企画−製作−販売というプロジェクトの中の歯車の一つに過ぎなかった。広重はその制約の中で自分なりの工夫をしようとしているのだが、「頼みもしない余計なことをした」と取られたらしく、原画通りに描き直しさせられたのがこの再刻版である。
広重東海道五十三次を「巨匠広重の芸術作品」と考えている限り、謎は解けない。主導権を握っているのは版元の保永堂であり、広重五十三次は「保永堂の商品」なのである。
広重は数年後の木曾街道六十九次「洗馬」で、弓なりの船頭、イカダと船頭、「輪郭のある冨士」に似た人家の屋根を復活させている。(この絵の版元は保永堂ではなく、錦樹堂である。)

川崎再刻版への改訂が広重の本意ではなく、強制されたものであったことがこれで証明できる。
版元ー保永堂

東海道五十三次の企画と出版は、版元である保永堂の主導で進められた。
商品の基本的な目標/思想は「真景」(=実際の風景、写実)であった。

保永堂にはこの商品について「人々の旅への憧れを満たすための画集であり、そのためには写実(真景)でなければならない」というはっきりしたコンセプトがあった。
さらに「日本中を歩いた江漢の絵は写実であるから、その通りに描くことが重要」
という思い込みがあった。広重の「芸術」や「工夫」はあっさり否定されたのである。


(左図)広重東海道五十三次をセット販売するときに使った袋のデザイン
   「真景 東海道五十三駅 続画」
保永堂の「真景」へのこだわりを示している。
広重五十三次の商品コンセプトが「真景」であったことは、別に新説ではなく、以前から言われていたことである。
広重五十三次の序文(四方滝水)
「広重ぬし其宿々はさらなり。名高う聞えたる家々、あるいは海山野川草木、旅ゆく人の様など、何くれとなく、残る隈なく写し取られたるが、目のあたり、そこに行きたる心地せられて・・・」
広重は「江漢の画集を参考にして五十三次を描く」のではなく、「江漢の五十三次を版画風にアレンジする」仕事を請け負っていただけである。
東海道五十三次は「広重の芸術作品」はなく、「保永堂の商品」であったから、広重は図柄やデザインを勝手に決めることは出来ず、まして発売した後になって、芸術的な好みだけで金と手間をかけて再刻版に改訂するなど出来るはずがなかった。再刻版を作る権限があるのは版元の保永堂だけであり、「真景を売り物にしようとする商品について実際の風景とは違うという評判が立ってしまうと売れなくなる」という商売上の理由だけがその動機である。
これまで再刻版の謎がこれまでどうしても解けなかったのは、「広重は世界的な巨匠」的なイメージから抜けられなかったためである。
保永堂は「江漢図は全国を旅して歩いた江漢の現地の忠実なスケッチのはずであり、その通りに描くのが写実である」と信じていた。
ただ江漢の時代からすでに20年経っており、当時の風景が変わってしまっているかも知れないという心配があったため、江戸の近くだけでも現地チェックして確認しておくということになって、広重は(後述のように)平塚/大磯付近まで東海道を旅している。
広重に与えられた基本原則は「(1)もし現地風景が江漢当時と変わっていたらそれを取り入れて修正する。(2)とくに変わっていなければ江漢図の通りに描く」ということであり、この基準で見直すと広重五十三次の異版や異刷りの謎はすべて氷解してしまうのである。
江漢画集は江漢の最晩年の作品であり、実際は忠実な写実画ではなく、一部には東海道名所図会のコピーも含まれている。広重はそのことに気が付いていたから、保永堂の「江漢図通り描く」という原則を甘く考えており、しばしば保永堂と衝突したらしい。
とくに川崎の再刻版では「船頭の姿勢」「富士山の輪郭線の有無」など「現地の実際の風景と違うかどうか」ではなく、「江漢図通りに描いたかどうか」すなわち「版元の指示を守ったかどうか」だけの感情的な議論になっているように見える。
広重は東海道五十三次で懲りて?、生涯、二度と保永堂とは仕事をしなかった。
木曾街道六十九次には、「広重−保永堂」は高崎の一枚しかない。広重がようやく参加すると同時に保永堂が抜けて版元が錦樹堂に変わる。
二人はよほど馬が合わなかったらしい。(「広重の世界」展カタログ 中右 瑛:「広重の魅力とミステリー」を参照)

 

川崎再刻版と江漢図との関係について、インターネットに「ニセ江漢がうっかりして(初刻と再刻版があることに気が付かずに)再刻版をコピーしただけと考えた方が簡単」という意見があった。
この説では、肝心の「何故広重再刻版が作られたのか」という昔からの広重の謎が解けないままでそのまま残されることになる。
大畠説では、広重の謎も江漢の謎もひとまとめに解こうとしている。

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