続膝栗毛口絵の検討                                元に戻る
鈴木重三氏本(朝日新聞記事)によると、続膝栗毛四巻(1813刊行)の口絵(道中ゆきかいぶり)から六ヶ所の人物が広重五十三次に転用されている。この口絵は物語の挿し絵ではなく、読者サービスのために初刊本にだけ付けられたもので、道中で見かける様々な人物を並べた絵手本である。

 ◆鈴木氏の指摘以外にも数カ所の人物が江漢図/広重図に転用されており、また江漢図にない人物が何人か広重図にコピーされている。ヒントを得た程度のものも含めれて探せばまだ他にも出てくるだろう。

◆基本的には「広重東海道を旅せず」問題の解明には人物モデルには大した意味がなく風景や山の形のモデル/コピーの解明こそが重要と考えている。

◆しかし続膝栗毛口絵から非常に多くの人物がコピーされており、江漢図/広重図の成立事情を探る上で重要な鍵の一つらしいので、総合的に検討して見た。

鈴木氏の指摘(6ヶ所)(川崎の男客、藤沢の盲人、平塚の飛脚、藤枝の人足、草津の早駕籠、沼津の比丘尼?)
は省略。それ以外の転用例 
続膝栗毛「川越し」

江漢/広重「浜松」へ転用
続膝栗毛「」

江漢/広重「掛川」
二川のごぜ

続膝栗毛(1813刊行)のごぜの奇妙な髪型が江漢図に描かれており、江漢図は広重図の再コピーではなく直接コピーである。

御油の留め女

二川と同様に、髪型が江漢図に直接写されている。
ほかに藤沢の芸者二人(飯盛り)、平塚の空駕籠、
◆続膝栗毛/広重図/江漢図のモデルーコピーの関係を細かく検討した。

●広重図は江漢図の単純コピーではなく、直接元絵を参照している。
これは東海道名所図会コピーと同じパターンで、広重は江漢図の元絵が分かったときは直接元絵を参照している。
(例:草津や大津の茶屋。江漢図の茶屋には人物が居ないが、広重図には東海道名所図会の茶屋の人物が大勢描き込まれている。)
●江漢図も広重図の単純コピーではなく、直接元絵を参照している。
  @川崎の煙草を持つ人物の背負う荷物の形とサイズ
  A二川(ごぜ)右の人物の髪型
  B御油(留め女)の髪型
すなわち続膝栗毛は江漢図、広重図の共通モデル。
   
考察
(ケース1)
江漢図をモデルにして広重図が作られた場合(江漢モデル説)


 ●江漢は京都からの帰路、写真鏡による風景のスケッチを多数持ち帰り、引退(1813)後これを有効利用して五十三次を描こうとした。買ったばかりの続膝栗毛の口絵にたまたま出ていた「旅の人物群」を利用したのは自然な行動である。この口絵を見て五十三次を描くことを思いついたのかも知れぬ。

 ●江漢図を見ただけで、広重が「続膝栗毛」がモデルであることに気が付いたのは何故だろう。(出版後20年)
鈴木重三氏は、浮世絵と江戸文学の研究家だったからこそそれに気が付いたのであって、江漢図や広重図を見ただけでは気が付かないのが普通であろう。

 ◎これまでの検討で、広重は江漢画集だけでなく、それに使った写真鏡スケッチや取材メモ一式を江馬家から借りて東海道五十三次を作成したものと考えている。そう考えないと説明できない絵が含まれているからである。(「新たな謎」の項を参照)
広重が江馬家から借用した関連資料一式の中に、江漢が人物モデルに使った続膝栗毛口絵も入っていたと考えれば納得しやすい。

(ケース2)広重のオリジナルだった場合(江漢ニセモノ説)

広重は何故か二十年も前の古本の口絵だけを人物のモデルに使ったたことになる。
続膝栗毛は広重時代でも入手できただろうが、この口絵は初版本だけに読者サービスとして付けられたもの。
広重は入手するだけでも大変だったろう。

 ●江漢の時代には東海道五十三次の参考資料はまだ限られていたが、二十年後の広重時代にはほかにもいろいろ利用できる資料があったはず。ところがこの続膝栗毛だけから大量のコピーがされているのは不思議である。またその後の広重作品にはこれほどまとまった人物コピーはない。広重の腕なら、この程度の人物を描くのにモデルは要らなかったはずである。広重は何故「このシリーズだけ」に、大量の人物を「この膝栗毛だけから」コピーしたのか。。これまで指摘してきた多数の「広重東海道五十三次の謎」にまた謎が加わることになる。

 ●広重のオリジナルであれば、江漢図は自動的にニセモノである。
(明治20年頃の)ニセ江漢は広重図を一目見て、続膝栗毛がモデルであることを見破り、広重図と続膝栗毛の両方を参照しながら描いたことになる。続膝栗毛は50年以上前の古本/貴重本であり、ニセ江漢が一目でそれに気が付いたという想定は不可能である。すなわちニセモノ説は続膝栗毛だけ考えても成り立たない。

 
江漢図の作成時期−「引退後作品説」の証明

◆大畠は、最初から総合判断の中で、江漢図が江漢全盛期の作品ではなく、「江漢引退後の作品」であることを主張してきた。直接の反論は聞いてないが、半信半疑の人も多かったと思う。

 今回、江漢図に続膝栗毛(1813刊行)がコピーされていることが分かったことで、江漢図が1813(6月引退)以後の作品であることが分かり、期せずして「引退後作品説」が裏付け証明された。
★作成時期のもう一つの裏付けは、江漢図日本橋の「相州於鎌倉七里ヶ浜」。
江漢が鎌倉山に在住したのは1813年6月から秋までである。江漢図に「於鎌倉」ではなく「年号」が書いてあれば、発見当初から引退後の江漢」に絞って検討されたはずであり、違った展開になったのではないだろうか。

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