「広重、東海道を旅せず」の検証                  総目次へ   概論へ戻る
広重は京都まで行っていないことはほぼ確実であり、大半の研究者もそれを認めている。(下記朝日新聞記事など参照)
「広重はどこで引き返したのか、現地を見ないと描けない絵があるか」という検証が必要であるが、作業してみると下表のように矛盾が多く、「広重がどこまで行ったのか」という特定が出来ない。
そのためか、相変わらず「広重は1812夏、お馬献上行列に参加して京都まで旅し、そのときの見聞をもとに,東海道53次を・・」という記述がまかり通っている。
  凡例
◎ 現地そっくり/現地を知らないと描けない。
× 現地には行っていない
□ 東海道名所図会などのコピー
 下記参照
江漢図を認める立場だと、話は簡単。
広重は平塚/大磯までしか行っていない。
酒匂川からの箱根風景(小田原)は完全に間違っており、広重はここまで来ていない。


広重は、江漢五三次画集だけでなく、写真鏡に
よる元スケッチや取材ノートも入手して参照して
いるようである。
○江漢図の二川には柏餅の看板文字がない。
広重はどうしてそれを知ったのか。
○江漢図の石部では、日向山の左稜線が樹木
で隠れており、正確な山の形が分からない。
広重はどうやってそれを復元したのか。


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★一方、江漢図の存在を認めない場合

「現地を知らないと描けない絵」が、どこまでも
とびとびに続くため、広重は、どこで引き返したのか特定できない。
したがって、「駿河の辺りから名所図会のコピー
が増える。」など曖昧な表現しかできない。

広重は京都には行っていない。
しかし二川、石部には行っていることになり、大矛盾を生じる。
石部は京都まであと半日の場所である。



二川の長尾根は実在するが、名所図会などに
モデルがない。


石部の日向山(和中散本舗庭園の借景)

現地では知られているが、全国的にはとくに有名ではない山で、名所図会などに名前も出てこない。

 

朝日新聞(2004年1月23日夕刊)第1面トップ見出し  抜粋
「広重東海道を旅せず?」  「26枚転用の可能性」「他の絵と人物酷似」「石の橋桁が木製に」
広重が東海道53次を京都まで旅せずに描いたのは確実だと、浮世絵研究か鈴木重三さん(84)が、23日発売の「保永堂版東海道五拾参次」(岩波)で明らかにした。全55枚のうち少なくとも26枚がすでに刊行されていた3種類の本からの転用だと指摘している、広重上洛説の見直しは避けられそうもない。
26枚の内訳:東海道名所図会18、伊勢参宮名所図会2(桑名、土山)、続膝栗毛四編口絵6(川崎、藤沢、平塚、沼津)

○共著者の大久保純一氏「駿河のころからリアリティーが減り、風俗画の要素が増えた。後半は東海道名所図会の影響が目立ち、製作を急いだような甘さがある」
○千葉市美術館・浅野秀剛学芸課長の話「現地に行かないと描けない絵があるかという検証が必要だが、行かなくても描けることを丁寧に検証してある。広重が上洛しなかった可能性がはるかに強くなった。」
保永堂版東海道五拾参次
岩波書店の新聞広告「始めて復元された広重の創作当初のイメージ」
「・・貴重な初摺り逸品を内外から一堂に集め、広重当初の揃物イメージを復原」 \22,000
新聞記事について大畠考察

●「続膝栗毛」モデルは、意外な発見である。ただしすべて人物のモデルなので、「広重、東海道旅せず」の根拠にはならない。(下図)
  「東海道旅せず」は、風景や山のモデルについて論じなければ意味がない。
●「続膝栗毛」のうち、「沼津」は広重図のモデルではない。(原画は三人比丘尼、広重図は母娘巡礼?)
●「伊勢参宮名所図会」のうち土山はモデルとは言えない。「伊勢参宮名所図会」からは、他に「関」と「京都」に転用されている。
●「東海道名所図会」モデルは、昭和35年から知られている内容。
モデルには「そっくりコピー」から「ヒントを得た・・」まで、様々なレベルがあり、どこまで拾うかが問題。数が多ければよいという物でもない。●京都三条大橋「石の橋桁ミス」も、すでに公知で、ほかの人の本に数年前から書いてある。

いずれにしても、朝日新聞が第1面トップに載せるような目新しいニュースではない。
朝日新聞記者は美術界のことをあまり知らなかったのか、あるいは、頼まれて売れそうもない豪華本の提灯記事を書いたのかであろう。
★浅野氏の談「現地へ行かないと描けない絵があるかという検証が必要」であれば、何故検証しないのか。
検証しないのではなく、何十年もの間、大勢の研究者がそれを検証しようとしたが、上の表のように矛盾があって、どうしても上手く行かないということであろう。したがって上記の大久保氏談のような曖昧な表現しか出来ないのである。
★江漢画集の存在を認めない限り、広重の旅の謎は永遠に解けない。

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続膝栗毛口絵(新聞記事)                                               
続膝栗毛 口絵 (1813刊行)
江漢図 川崎 (部分)(1813)

広重図 川崎(初刻) 部分 (1833)

同上 拡大図
続膝栗毛は、まづ江漢図のモデルに使われた。
広重図の煙草を吸う人物は大きな箱を背負うが、続膝栗毛と江漢図では丸い小さなものを背負っている。
江漢図は広重図のコピーではなく、続膝栗毛の直接コピーである。(ほかの東海道名所図会モデルにも同じパターンの例がが多い。)
追記: 広重川崎のモデル問題にはまだ続きがある。
1820年頃刊行された北斎五十三次「川崎」の人物が広重「川崎」にコピーされていた。
広重「川崎」は@江漢の川崎 A続膝栗毛 B北斎「川崎」の三つがコピーされていることになる。    北斎五十三次の川崎
追記: 続膝栗毛から非常に多くの人物が広重図にコピーされているので、更に詳しく検討し考察した。 続膝栗毛の検討
風景と人物モデルの総合一覧表(2004/7)大畠作成                             一覧表へ
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