江漢画集ニセモノ論の例                                   概論に戻る
福富太郎氏(コレクター)の初期の推定 

A説)明治二十年頃の混乱期に司馬江漢がどのような絵を描いていたのかよく分からないことを利用して、広重の五十三次から模写し、江漢として売ってしまおうとした絵師が描いた説。

B説)最初広重の五十三次の銅版画風、一種近代的な絵を描いて広重作として売ろうとしたが買い手が付かず、ならば江漢として売ってしまおうというアイディアマンがいたとする説。     
B説の方が可能性が高いと思う。 
       ★B説は前代未聞の「本物とまるで似ていないニセモノ」に対する苦心の説明であろう。
反論:本物とまるで似ていないニセモノが(贋作史上)ありうるのか。
江漢図は広重図の単純なそっくりコピーではない。
広重東海道五十三次−成立とその謎 稲垣進一氏(国際浮世絵学会常任理事)(馬頭町広重美術館館長)
  図説 東海道五十三次 金井金吾(2000年12月 河出書房)に寄稿したもの

・・・このように、用意周到に作成された魅力的な作品だが、広重は果たして京に上ったのだろうかとの疑問が、この数年来くすぶっている。

まず第一に、上京して取材したのなら、なぜ他人の絵を真似たのか。
石部の名物菜飯田楽の茶店は、アングルを多少下げたが、『東海道名所図会』にまったく同じ。・・・

近年、広重の前の時代の画家・司馬江漢の肉筆・五十三次が出現し、広重がそれを写したとの説が現れマスコミを騒がせた。
その絵はデッサン力がなく人物は棒杭のよう。比べれぱ逆に広重の絵を写したものに江漢の署名と印章をすぺり込ませたものだと分かる。
だから江漢「日本橋」は広重の後版「日本橋」の通行人を間引いて模写したもの。
「関」には本陣内に掛けられた札に白粉・仙女香の宣伝文字がそのまま入れてある。
江漢は贋作だったわけである。
稲垣氏への反論: 「広重と較べて人物が下手」と言うのはナンセンス。「江漢の真物と較べて人物が下手」と言わなくては意味がない。 江漢は人物が上手い画家だったのか。
ニセ江漢は、広重図の「仙女香」が広告であることが分からないほどのウッカリ馬鹿なのか。
(広重図には発売元の住所と名前が書いてあるのに・・)
inserted by FC2 system