これまでの江漢研究−写真鏡(ドンケルカーモル)について         概論に戻る

★成瀬氏の研究「29.江漢工夫の奇器について」に写真鏡の記事がある。大槻玄白「蘭説弁惑」(1788)に挿図があり、一眼レフのように45度の角度に鏡が取り付けられ上から覗けるようになっている。江漢は写真鏡を入手し使っていたとおもわれるが、江漢の使った写真鏡は残っていない。
写真家の中川邦昭氏は江戸後期に作られた写真鏡※で実験し絵画作成に役立つことを証明した。中川氏はこれまで知られている江漢作品の多くが写真鏡によって作られたとしているが、成瀬氏はそれには疑問を呈している。
(※大畠注 江戸後期の写真鏡とはカメラのことである。幕末の写真店が使っていた手製のカメラがいくつか現存し、邦訳された技術書(下図)も残っているが、一眼レフタイプではなく、画像が逆さに写るタイプである。)
写真鏡説
大畠意見
江漢53次は写真鏡で取材したものであるが、それ以前の江漢作品では写真鏡は使われていない。
理由1は、「江漢53次は、それまでの江漢作品と画風が違いすぎる」こと。
理由2は、江漢が書簡の中で、「日本始まりてなき画法なり」と言っていること。この表現は「江漢自身も始めて使った」という意味で、「江漢は以前から使っているが他の人は使っていない」ような場合は、このような表現にならない。
●江漢が西洋画論の中で「オランダ画法」として紹介しているのは、遠近法、陰影法、写真鏡の三つである。遠近法と陰影法は、すでに江漢の西洋画で多用されている。1813年書簡の「蘭法の写真の法−−日本始まりてなき画法」は明らかに「写真鏡」のことである。
1813年6月12日 山領主馬あて書簡
この度和蘭奇巧の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
写真鏡と写真鏡による絵画
江漢は1805年頃から「写真鏡」に着目し、「絵を描くために必要なものなので是非入手したい、人にも配りたい」と言っている。しかし実際に入手できたのは1812年京都で(日本には存在せず、京都の細工師に作らせたものであろう。)、翌1813には江漢は引退している。
本人が「日本始まりてなき画法」と言っていることから、この写真鏡が日本の第1号であり、江漢の引退により、その後も使われることがなかったと思われる。
江漢53次画集は、「広重53次の原作/元絵」というだけでなく、「日本における唯一の写真鏡による作品」という意味でも大きな資料価値がある。
中川氏の「江戸後期の写真鏡」とは写真機のことである。この写真鏡を(写真ではなく)絵を描く目的に使った人が江漢以外に居たかどうか、文献上でも不明である。
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