海抜2m地域について              目次へ
鎌倉時代〜戦国初期の海面は今より高く(海進)、河口近くの海抜2〜3mの場所はまだ海の中あるいは低湿地帯で通行出来ず、また居住地にも田畑にも使えなかった。
こうした場所が海面低下(海退)で乾燥が進み、何とか通行できるようになったのは戦国中期(上杉謙信、武田信玄の頃)だったと思われる。

海が陸地に変わる原因として@陸の隆起、A土砂の蓄積、B海面低下の3つが考えられるが、数十年〜数百年の短期間に起こる変動はすべて海面の変化と考えてよいとのことである。陸の隆起は数万年、数十万年という時間単位で起きる変動である。
海面の変動であれば、全国各地少なくとも関東の各地ほぼ同じ時期に新しい土地が生まれ、交通路も山上から川沿い海沿いに変化したはずである。
帷子川下流(1万分の1地形図)
実測点と等高線

1万分の1地形図「保土ヶ谷」には古町通りに海抜2mの実測点がある。また3m、4mの等高線をたどると、この付近一帯はは海抜2〜3m地帯であり、鎌倉〜戦国初期には海あるいは海につづく干潟であったことが分かる。

帷子川下流の地形は極端に平坦で傾斜が少ない。安定した街道が通れる海抜5mはずっと上流の和田橋である。→→地図2
●明治の地名学者吉田東伍博士は、神戸(ごうど)の地名を唯一の根拠として、この付近は郡役所のあった場所であり、橘樹郡の中心地であったという説を述べ、それがそのまま保土ヶ谷郷土史に再三引用されている。海抜2mの標高を見ただけでも「竜宮城」ならともかく「郡役所」があったとか実り豊かな水田地帯だったとかなどあり得ない話である。

神戸が通行できるようになったのは戦国中期であり、土地が利用できるようになったのは江戸時代初期である。それ以前には神戸はこの場所には存在さえしなかった。 「神戸」の地名が古い文献に現れない(保土ヶ谷区史)のはそのためである。
金沢八景
鎌倉時代の海進の状況がもっともよく分かるのが金沢八景である。

金沢八景駅から16号線を横須賀方面に少し進んだところにある掘割り(泥牛庵と金竜院の間、海抜4m)は朝比奈切り通しと同じ時期の工事で作られたものである。
鎌倉時代、海が大きく入り込んで、上行寺の隣が船着き場になっていた。 上行寺には、「舟繋ぎ松」の伝説があり、房総から舟でやって来た日蓮はここで上行寺に入り、舟の中の宗論をさらに続けたとされている。
1万分の1地形図の実測点と比べると、16号線上の現在海抜2mの地点は鎌倉時代には完全に海の中であること、交通路は海抜4m以上を通過していたことがよく分かる。

(上図3m地点は内川 橋を造るために盛り土がされているので除外して考える。〜現地調査結果)

多摩川下流
多摩川下流も戦国中期までは通行できず、街道は上流を迂回していた。各時代の交通路を示すエピソードを二三紹介しておく。
地形図と対照すると、江戸以前に通行できなかったのはすべて海抜は2〜3mの地域である。
平安紀行(太田道潅偽書)
太田道潅の「平安紀行」の「日盛りは片肌脱ぎて旅人の汗水となる帷子の里」の歌が江戸名所図会に掲載されており、よく知られているが、この資料は以前から「江戸時代に作られた真っ赤な偽書」と断定されている。この旅日記では「河崎という海近き宿にて」しばらく休んだ記事があるが、道潅当時、東海道の道筋はまだ通れなかったはずというのが偽書と断定された大きな理由の一つである。
回国雑記(准后道興)
太田道潅の時代にこの付近を旅した准后道興「回国雑記」には、途中の地名を折り込んだ狂歌が記載されており、道筋がよく分かる。
品川からしばらくは海岸線をたどるが、大森付近から内陸へ移り、池上、丸子の渡し、日吉、新羽・・ と現在の東横線の丘陵地帯を通っている。(ただし日吉方面に用事があったのかも知れないので、道筋の証明にはならない。
神霊矢口の渡し
南北朝時代、新田義貞の子、新田義興は矢口の渡を渡ろうとして敵の罠にかかり、無念の最期を遂げる。その亡霊の恨みを静めるために現地に新田神社が造られた。この故事を題材とした人形浄瑠璃「神霊矢口の渡し」は平賀源内(鳩巣)の作である。
「当時の道筋は江戸時代の街道(六郷渡し)とは違っていたと言う説明がぜひ必要」という注文が出たところ、源内は即座に筆を取って次の文句を書き加えたので、皆が感服したというエピソードを蜀山人(太田南畝)が記録している。
     「六郷はのちの世よりの渡しにて、その水上は弓と弦、矢口の渡しにさしかかり・・」

「水上」は「時代を遡ると」と「川上の」という2つの意味に使われている。「弓と弦」は「矢」を引き出す枕言葉であると同時に、「昔はこのように上流を迂回していた 」という図解にもなっている。
昔の街道は多摩川下流を避けて上流を迂回していたことは江戸時代の知識人の間では常識だったことが分かる。
武田信玄軍記
1)武田信玄が小田原に攻め込んだときの戦記には、「六郷の橋がすでに落とされていたので、池上本門寺の僧に案内させて矢口の渡しを渡った」とあるから、戦国中期には六郷が通れるようになっており、橋も架かっていたらしい。
(東海道時代の始めは、六郷には橋が架かっていたが、途中で橋を廃止し渡しに変えた。破綻した川崎宿の経済を立て直すための苦肉の策である。)
2)同じ武田信玄の軍記に、「片倉神大寺という山を筋違い(すじかい)に帷子というところへ出兵す」という記事がある。この辺りの道は複雑に曲がりくねっており、京都の碁盤目道のように「筋違い」という表現は普通思い浮かばない。「筋違い」について「信玄軍が片倉・j神大寺に現れたので、鎌倉道を通って和田橋へ来ることを予想していたら、斜めに横切って古町橋へ来たのは少し意外だった。」と解釈しており、交通路の変化が起き始めた時期だったのであろう。

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帷子川下流地形図2                         元にもどる
帷子川下流の地形は極端に平坦で傾斜が少ない。
下の地形図で、ニチイ前−区役所前の道は、どこまで行っても海抜4mであることに注意。
(土地が極端に平坦であるため、すぐそばの帷子川から灌漑用水が引けず、3kmも上流の坂本村の堰から水を引かねばならなかった。)
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