鎌倉道の解説                      戻る
1.鎌倉道(鎌倉古道)について

鎌倉道は鎌倉幕府時代、いざ鎌倉の時、諸国の武士が鎌倉に馳せ参じるための道であり、鎌倉を中心に放射状に伸びている。

右図のように、保土ヶ谷付近を「鎌倉下の道」が通過している。「中の道」「上の道」の話と混同しないこと。
 

鎌倉幕府を守るはずの鎌倉道であったが、皮肉にも鎌倉幕府滅亡の際、新田義貞の軍勢がこの下の道を通って鎌倉に攻め込んだといわれる。

軍事用だけでなく、一般の人の主要交通路としても重要な道である。
鎌倉幕府が亡びたあとも(東海道が出来るまでの)長い年月にわたって主要街道として使用された歴史の道である。
2.鎌倉古道の定義
         
●研究者の間では、「鎌倉古道」は東海道が制定される以前の鎌倉へ向かう主街道と定義される。
  すなわち鎌倉幕府が滅びたあとで出来た古道も、江戸以前であれば「鎌倉古道」の定義に含まれる。
    (鎌倉幕府時代の道かどうかが 容易に区別が出来ないこともある。)
  武蔵国風土記稿などでも同じように「江戸以前の古道」の定義で「鎌倉古道」を使っているようである。。

●戦国時代に大きな海退があって、交通路が山から低地へと大きく変化するという出来事があるため、話がさらに  ややこしい。この場合、上図のように鎌倉古道を前期鎌倉道後期鎌倉道を分けないと、うまく整理出来ない。
江戸時代になると主街道は東海道に移り、また大岡川に沿った新しい「鎌倉街道」が出来る。
 この鎌倉街道は「鎌倉古道」ではないので、ここでは議論しない。
保土ヶ谷付近では、古い方の鎌倉道は「弘明寺道」という名前に変わり、長く人々に利用された。

★金沢横町の道しるべの「かまくら道」は新しい鎌倉街道を示し、側面の「ぐみょうじ道」が鎌倉古道を示している。                   
        
整理すると
   1)鎌倉時代の「いざ鎌倉の道」 前期鎌倉古道
                 −片倉/神代寺−三沢−和田桜ケ丘石名坂−弘明寺−餅井坂 
   2)戦国中期に交通路が変化し、海岸沿い/川沿いに移る。
        この道も江戸以前の道なので「鎌倉古道」の定義に含まれる。後期鎌倉古道 →弘明寺道
                       −神奈川−−−古町橋石名坂−弘明寺−餅井坂
   3)江戸時代に開かれた鎌倉街道−大岡川沿いの鎌倉見物の道−(ここでは議論しない。)
                            
鎌倉古道は、保土ヶ谷郷土史にとって非常に重要な道なのだが、「保土ヶ谷区郷土史」(昭13)の説明が簡単すぎて読んでもよく分かりにくい。
またそのことが原因で、「保土ヶ谷ものがたり」(昭45)には「鎌倉道」の記述が全く忘れられてしまった。
保土ヶ谷地区の郷土史愛好家でも、この重要な鎌倉下の道を知らない人が多くなった。

区役所から発行される郷土資料にも、これまで「鎌倉古道」に全く触れたことがないなどがその現われである。
石名坂は、長い歴史を持った保土ヶ谷交通史上もっとも重要な坂だが、「横浜の坂」に「石名坂」は全く取り上げられていない。現地に「坂名表示」さえもなく、現地の説明板には「鎌倉道」の説明も何もない。
2.昭和初期の鎌倉道論争
武蔵国風土記稿や相模国風土記稿は、鎌倉下の道が東海道と同じ道筋であったという先入観に基づいて書かれている。(ただし武蔵国風土記稿では、岩井原に相当する場所がないことに疑問を抱き、岩井原は岩間原のことではないかとして、「ここに記して後の考を待つのみ」とした。)

初期の研究はこれに引き連れられており、昭和初期まで「鎌倉下の道」は東海道とほぼ同じ境木越えの戸塚ルートと考えられ、古町橋−桜ケ丘−神奈川坂−境木とされていた。すなわち桜ケ丘道は、鎌倉時代からの鎌倉道であるというのが当時の学説であった。(下左図)  ( 石野瑛 昭和2 横浜近郊文化史)
           
ところが道興の回国雑記に出て来る「餅井坂」が弘明寺の先に発見されたため、この学説はあっさり撤回され、鎌倉道は境木越えではなく、石名坂越えということに変わった。  (上右図)(石野瑛 昭和6 横浜市史稿 政治編1)

鎌倉道と思われていた桜ケ丘道は、突然に「ただの田舎道」になり下がってしまったことになり、それだけでなく、
鎌倉道が保土ヶ谷宿を通っていなかったことになると、保土ヶ谷宿の起源が宙に浮いてしまう。

●保土ヶ谷区郷土史(昭和13)  「もう一つの鎌倉道」
保土ヶ谷区郷土史では、それまでの定説だった「古町橋−桜ケ丘−元町−境木」の道筋をもう一つの主要街道に想定し、上杉謙信や武田信玄の小田原攻めの道とすることで、この道の歴史的地位と保土ヶ谷宿の起源を復活させようとしている。
「石名坂越えの鎌倉道」以外に別な主要街道があったとしても構わないのではないか」という論法である。
          
残念ながらこの説は論拠のない単なる「想像」であり、その後の研究者の賛同は得られていない。
とくにこの道が桜ケ丘の山の上を通らねばならない理由が薄弱である。


●大畠説 「もう一つの鎌倉道」  2−2参照
「石名坂越えの鎌倉道」以外に「三ツ沢和田−仏向−法泉下−境木−」の主要街道を想定した。
これで保土ヶ谷宿の起源も説明出来るし、地形、検地帳の地名、武蔵国風土記稿の記事などとも一致する。

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