§2 鎌倉時代の鎌倉道                   目次へ
鎌倉時代、いざ鎌倉のための鎌倉道(鎌倉下の道)が桜ケ丘を通過していた。
                                            鎌倉道の解説
鎌倉古道の研究
保土ヶ谷以外の地域では、昔から鎌倉道の研究家は多い。
長い間の研究成果から「鎌倉下の道」のルートも次のようにほぼ確定している。

  −池上本門寺付近−丸子の渡−(ほぼ東横線ルート)−片倉/神代寺−三ツ沢−○○−石名坂−
        −弘明寺道山門前−餅井坂(南区別所)−日限地蔵−舞岡公園−本郷台−大船離山−北鎌倉

上記のルートについて、保土ヶ谷地区に当たる−○○−の部分だけが、諸説があって不明であった。

「桜ケ丘道=鎌倉道 」説

古町橋が昔からの交通の要地」というのが、これまで一貫して保土ヶ谷付近の交通の歴史を考える大前提になっている。しかしそれは思いこみではないだろうか。

等高線をたどってみると、古町橋付近は海抜2−3mくらいであることが分かった。
一方、周辺地区の交通路を細かく調べると、多摩川や鶴見川の河口付近の海抜3m地帯は、鎌倉時代はまだ低湿帯で通過が困難であること、安定した街道は海抜5mあるいはそれ以上の等高線に沿って通っていることが分かってきた。

すなわち鎌倉時代には古町橋は海中あるいは低湿地帯で通行出来なかった。
  それを前提に交通路を考えると、桜ケ丘を通るしかないことが分かってきた。
              
(古町橋付近が通行できるようになったのは、戦国時代中頃以降から)

海抜5m以上」という条件に当たる帷子川の渡河点は、古町橋よりずっと上流の和田橋付近である。
古町橋から和田の間は等高線の間隔が異常に広く、極端に平坦である。(細長い沼だった?)
古町橋が渡れない時期には、星川図書館付近も星川小学校付近も同じように通行出来なかったはずである。
古地図を見ても、武蔵国風土記稿などの資料を見ても、古町橋と和田の中間にきちんとした別な橋があったらしい形跡はない。

以上から鎌倉時代の帷子川の渡河点は和田であった。
    では和田橋から石名坂の間の道筋は、どこだったのだろうか。地形から考えてみよう。

帷子川の南岸を通って神戸から石名坂へ出ることが出来れば山を越えずにすむので楽だが、この南岸コースは、同じく低湿帯であったはずである。断崖が迫る場所が何個所もあり、星川付近では「下の谷」が深く喰い込むなど難所が多く、街道としては無理があったと思われる。

地形から見て、和田で帷子川を渡ったあと仏向から桜ケ丘に登り桜ケ丘の山上を石名坂へ向かうことになる。
和田からの道としては、遠まわりの感じがするが、「下の谷」が深く侵入しているためこれを大きく捲くような道筋を取らざるを得ないのである。
   
裏付け資料
以上の「新鎌倉道説」は、純粋に地形図の等高線の検討だけから生まれたものであるが、裏付け資料として、
  @県営住宅工事で発見された砂利舗装道と球場付近の A神明社の県立と移遷など がある。

@田辺政義氏の証言
花見台の県営住宅は戦前「ぶどう園」があった場所である。戦後県営住宅建設のために整地作業をしていたところ、地下1mほどのところに砂利を敷き詰めて踏み固めた明かに道路と思われる簡易舗装跡が発見された。
また、戦前に保土ヶ谷球場付近に塚が並んでおり、戦死者の墓と言伝えられていたが、人骨など何も埋まっていなかった。(十三塚の類と思われる。)
仏向町 田辺政義氏の証言:同氏は以前からこれらを根拠に本稿と同じ「鎌倉道」説を主張されていた。)

この舗装あとは、「下の谷」の源流−現在、保土ヶ谷プールのある窪地−の上に当たる場所であり、下の谷に向かって街道の土砂が流され、滑りやすくなるのを食い止めるための工事の跡と思われる。相州道程度の単なる田舎道では、このような簡易舗装は考えられず、主要街道である鎌倉道の跡と思われる。

十三塚は、真言宗の僧侶が、伝染病などの災いが入ってこないよう村の入口で祈祷をしたあとと考えられている。保土ヶ谷には、他にも十三塚の記録がいくつもあり、いづれも江戸以前の主街道の入口の場所と一致している。

2)神明社の建立と移遷
次章で述べるように、鎌倉幕府成立の後、桜ケ丘に神明社が建立され、江戸初期、旧々東海道が平地に設定されて間もなく、その後を追うように現在の下神戸に移遷した。

江戸名所図会:大神宮 嘉禄二年九月十六日この山上に遷し奉り、又元和二年三月三日今のごとく平地へ宮居を造立す

{関連年表}
1192 鎌倉幕府成立(鎌倉道制定)
                1225 嘉禄元年 上神戸に神明社設立
1333 鎌倉幕府滅亡
1591 小田原滅亡。家康入国。
1601 東海道(旧々東海道)
                1616 元和5   下神戸に神明社移遷

年表が示すように神明社の歴史と街道の歴史はよく一致し,神明社は街道変遷の後を追う行動をしている。
鎌倉時代に鎌倉道に隣接して建立された神明社は、江戸時代に交通路が変わって街道からはずれ、さびれが決定的になったため、新しい東海道(旧々道)沿いの現在の場所に移遷したのである。

 
           
江戸時代〜昭和初期まで、鎌倉道は桜ケ丘の山上を西に向かうと考えられていた。
今回の説では、鎌倉道は桜ケ丘の山上を東に向かって石名坂につながる。鎌倉へ向かう方向が正反対であるのが面白いが、桜ケ丘道はやはり鎌倉道だったのである。

昭和初期に一度否定された桜ケ丘道=鎌倉道説は再逆転の末、再びよみがえることになった。
古町橋がまだ海中で通過できず、和田橋で帷子川を渡っていた時代の鎌倉道が桜ケ丘道なのである。

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     和田からの鎌倉道コース推定
@和田町駅−墓地裏階段−仏向団地−向原幼稚園−公園橋−球場−花見台−桜ケ丘高校−−
A和田信号入る−右へ階段登る−矢し塚付近−無線塔−富士見橋・・(以下略)・・法泉下

  
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