神奈川南部の石工の系譜 第三報改訂 大畠洋一                   目次に戻る  
日本の石仏No81(1997春号)記事を全面改定したもの。
雑誌に掲載された後の読者からの情報など多数の情報が追加され、追補では追いつかなくなったこと、第四報で青面金剛とショケラの起源が関西にあることが分かったため「初期青面金剛の姿形の変化を追跡することで青面金剛やショケラの根元を探る」という当初の研究目的が薄らいだことから全面改定した。

庚申塔や石仏に石工の名前が彫られることはまれであり、一般には作品の系列をたどることは容易ではない。しかし仏像のポーズや三猿、邪鬼など付属物の特徴から、作品の系統がたどれる場合があり、時間順に並べて見ることで時代による様式の変化など新たな知見が得られることがある。
鎌倉藤沢を中心とした湘南地区の初期青面金剛と初期ショケラの系列に関する二三の発見について報告する。
無名石工の研究
これまでの石工研究は銘の彫られた石工に限られていた。昭和五十三年の日本の石仏「石工特集」には無名の石工の研究をどうしたらよいかという問題提起がなされているが、その後も無名の石工の研究はほとんど見当たらない。本報告は無名石工研究の一つの方法を提案していると考える。
1.「片手サル」の庚申
横浜市南部から鎌倉藤沢にかけての広い地域に、左図のように片手で目や口を押さえた三猿を持つ多数の庚申塔がある。本尊の青面金剛についても表情や腕の形(肘を曲げずに放射状に伸びる)に特徴があり、片手サルは同じ石工の作品を示すトレードマークと思われる。この一覧からある無名の石工の一生が次のように推定できた。
活躍期間はちょうど青面金剛の様式が模索され、確立していく時期に当たり、青面金剛様式の変化の「定点観測」という意味でも興味がある。
最盛期の片手サル青面金剛
初期の片手サル青面金剛
延宝8 湯河原
延宝8 鎌倉
延宝9 三浦 和田
片手サルの分布
片手サルは図1のような分布を示す。一人の石工として作品の数が大変多いこと、活動範囲の広いことに驚かされる。
石仏の研究調査は、市町村や東京横浜の区など行政区の単位で行われることが多いが、現在の行政区は江戸時代の「文化圏」と余り関係がない。少なくともこの図程度の単位で調査して比較することが必要である。
湯河原は隣の真鶴と共に、有名な石材の産地であり、昔から多数の石工を抱えていた土地である。
庚申年に当たる延宝八年(1680)正月、湯河原の若い石工の一人が青面金剛一体を故郷への置き土産にして鎌倉近郷へ移住し、庚申塔の制作を始めた。これから庚申塔の仕事が増えそうだという情報を石材輸送ルートから得ていたのであろう。

予想通りこの年は庚申塔の注文が多く七月から十二月の半年の間に鎌倉、葉山、横浜で五基の庚申塔を製作する。新事業の滑り出しは順調である。(湯河原の一体はパンツをはいた夜叉型、鎌倉周辺のものは明王型であるがいずれも四手で持ち物は同じである。(儀軌の四手とは違う持ち物であることに注意))

翌延宝九年になると前年の庚申年の反動で注文が全く来なくなる。仕事が来なければどこまでも探しに出るのが職人の常であり、石工は三浦半島まで足を延ばし和田の里で六手が放射状に伸びた変形六手を製作した。
これと全く同じ六手変形が翌天和二年に横浜市港南区に作られた。(天和二年のものはずっと屋内にあったらしく保存状態が非常によい。三猿の背景が梨地状に加工されており、湯河原のものと同じテクニックである。)★
★やがて事業は軌道に乗り、仕事量も安定し、青面金剛の様式は六手合掌型に落ち着く。テリトリーは鎌倉葉山逗子藤沢と横浜の戸塚区、港南区、金沢区で、二三の例外を除いて鎌倉を中心とした半径5kmの円内である。

元禄十三年頃、石工の身の上に何かトラブルが起きたらしく、八年間もの間、青面金剛の空白期間がある。しかし二体ほど片手サルの地蔵庚申が作られており不在だったわけではないのが不思議である。
トラブルの原因かも知れない不思議な庚申塔が鎌倉市山崎にある。本物の片手サルに隣り合わせて片手サルの偽物が置かれているが、不思議なことに本物の片手サルはサルと鶏を残して碑面が削り取られ、別な石工の手で日月と年号が再刻されている。故意に碑面が破壊されたため、仕方なしに最小限の手直しをしたという印象である。

八年後復帰した石工は今まで通り精力的に青面金剛の製作を続けるが、正徳4年(1714)を最後に急に作品が止まる。多分病気に倒れたものと思われる。
3年後の享保2年(1717)に再起第一作を試みるが、病気の後遺症のためか出来が悪く二度と仕事をしない。享保9年(1724)死期を悟った石工は自分自身の極楽往生の願いを込めて最後の阿弥陀庚申を作るが、腕が利かないのか粗雑な出来である。

(本人の故郷湯河原と活動の中心鎌倉のちょうど中間点に当たる二宮の宝蔵寺の享保十二年(1727)の片手サル青面金剛は本物とまったく同じ原図であるにもかかわらず作風の異なる別な石工の作品である。この時期には二宮周辺にはまだ青面金剛はほとんど存在しない。友人の石工が本人の供養の目的で特別に作ったものだろうか。)

様式の変化
延宝八年はこの地方でも六手合掌標準型が確定し始めた時期であるが、この石工はまだ四手像について持ち物を模索している。

その後六手を放射状に伸ばした六手変形二基を経て合掌標準型に落ち着くが、元禄六年には輪を金剛鈷に変えることを試みている。剣人型の青面金剛を生涯一体も作っていないが、貞享元年(1684)の一体は摩滅で分かりにくいがショケラと蛇を持っているようにも見える。青面金剛の姿について研究を怠らないことが窺われる。

片手サルの偽物
片手サルはこの石工のトレードマークであり、他の石工は原則として遠慮して使わなかったものと思われるが、次のような「偽物グループ」もあることが分かった。

元禄年間 三浦半島(初声地区)
青面金剛の姿が異なるので見分けは簡単である。片手サル石工のテリトリー外であるが、付近の和田に一体だけ延宝九年の本物があるので深く考えずにそれを模倣したのであろう。

享保年間江の島道
片手サル石工の引退の時期に合わせるかのように江ノ島道沿いに片手サルの偽物がかなりの数出現する。サルは似ているが青面金剛の姿ははっきり異なる。本人が引退したからもう使っても構わないだろうと言うことだったのであろう。

散発であるが、表の△印は別な石工による偽物のようである。サルの胴が少し長すぎるのが特徴だが、それも少しづつ改良され、最後の竜口寺になると青面金剛のない三猿だけのこともあって判定が困難である。

注)読者に誤解があるので断っておく。片手で目や口を押さえる猿をすべて「片手サル」と呼んでいるのではなく、はっきりした特徴があり同じ石工の作品と思われる石仏群に「片手サル」とネーミングしただけである。


   
   
2.邪鬼面の青面金剛
藤沢、逗子、葉山、横須賀にかけて寛文十一年から十三年に「邪鬼面」の青面金剛がある。
青面金剛に踏まれる邪鬼が顔だけであること(邪鬼面)が共通の特徴であるが、その他、中央の猿の頭の位置が低いこと、腕の形が似ていること、各手首に巻き付くヘビ、丸首型の衿、持ち物として「索、数珠、輪」(いずれも「円」で表されるため一般に区別しにくい)を3つとも持っていることから同じ石工による作品群と見なされる。
この持ち物と様式はこの地域の他の石工によっても模倣され元禄まで続いている。

左:葉山(寛文11)    右:逗子(寛文11)

左:逗子(寛文11)  右:横須賀(寛文12)
C:横須賀(寛文12年)
京浜急行追浜駅近くの良心寺の寛文十二年青面金剛Cは「邪鬼面」グループでの一つであることがあとになって分かった。「邪鬼面」というグループを作っておかなければ、多分見逃したであろう。
この塔では台石に刻まれた庚申講のメンバーの名前が「高誉、碩南、宝阿,乾悦、利玄,星哲・・」という僧侶名(雅号?)であるのが大変珍しい。どういう集団だったのだろうか。

この青面金剛は保存状態が非常に良いため、磨耗で持ち物が分からなくなっている同じグループの青面金剛の元の姿を推定するのに有効である。(これまでは藤沢の寛文十三年Dが推定のベースになっていたが、それより更にはっきりしている。)
輪、索、数珠、戟、弓、矢、腰のまわりに絡む二匹の蛇、
面だけの邪鬼(ただし三猿の頭の水平位置は揃っている。)
「腰に絡む二匹の大蛇」は「儀軌の青面金剛」の持ち物だが、複雑になりすぎることから石仏に彫られた例は大変珍しい。

C:横須賀(寛文12年)
D:藤沢(寛文13年
)藤沢遊行寺通り(商店街)庚申堂にあるDは大型で彫りも立派なもので、保存状態がよく、庚申関係の著書にもよく写真が掲載される。
しかし寛文十二年Cに較べると目のまわりの表情は崩れている。また「帯の結び目」のように見える深い彫り物の正体がこれまでどうしても分からなかっが、良心寺Cとの比較で「絡み合う二匹の蛇」であることが分かった。

寛文十一の二体A/B(逗子、葉山)は左下手に何か複雑なものをさげているように見え、ショケラではないかと言われていたが摩耗がひどくはっきりしなかった。Cと較べて見るとショケラではなく、「帯代わりの二匹の蛇と弓が交錯した形」であった。

D:藤沢(寛文13年)
3.邪鬼とショケラの夫婦

逗子市金剛寺(宝暦3)と三浦海岸岩浦(いわふ)福寿寺(宝暦4)は同じ石工の連作で豪快な青面金剛である。両者を比較すると面白いことにショケラと邪鬼の男女が入れ替わっている。石工の描写力は大変しっかりしており、スカートの有無だけでなく、男女の体型の違いまできちんと描き分けている。
邪鬼のポーズが少々変わっており、片手で青面金剛の足を支えている。
女の邪鬼がこれほどはっきりしているのは他に例がない。
唐代に作られた仏教語大辞典「慧琳音義」では大黒天の姿について次のように記述している。
「大黒天:八手にして身青黒雲色。二手は一の三叉戟を横に把り、右二手は青羊、左二手は餓鬼の頭髻、右三手は剣、左三手はドクロ幢を把る、後の二手は肩の上に一の白象皮を張りて被るが如くす。毒蛇を以てドクロを貫きて瓔珞とし、虎牙を出し大忿怒の形なり。足下に地神天女あり、両手を以て足を承く。」
餓鬼は敗れたシヴァであり、足下の女性は「地女神が縁の下の力持ちとして支持している」のではなく「シヴァ妃が踏まれている」姿であろう。
この石工は、こうしたことをすべて承知の上で、ショケラと邪鬼を一組の夫婦と見なして、慧琳音義の記述を青面金剛像に表現しようとしたに違いない。

左:三浦(宝暦4)      右:逗子(宝暦3)
♂ショケラと♀邪鬼     ♀ショケラと♂邪鬼
まとめ

これまでの各地の石仏研究は、ふつう市町村単位あるいは東京横浜の区単位で調査を行い、所在地、碑文などの詳細な一覧表を作るに止まっていることが多い。こうした調査は「研究の最初のステップ」として重要であるが、そこで終わっていては「研究」とは言えない。また国勢調査のような統計を取ってみたところで意味が在るとも思えない。

この報文では、石仏研究を進めるための一つの方法として、三猿、邪鬼などの特徴に着目して小グループを抽出し、「片手サル」など適当にネーミングしてしまうことを提案している。自己流であるが、後でよく考えると「グループ化」は川喜多二郎氏の発想法KJ法の基本手法であるし、「適当なネーミング」は、ベストセラー「超整理法」で推薦している手法である。
記事が掲載された後、関連情報が沢山集まり思いがけない展開につながったことからも、有効な方法と思われるので是非応用して見て頂きたい。

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考察
青面金剛の姿や持ち物を決めるのは石工なのか注文主なのかという問題がある。石工は注文主に言われた通りに作るだけという意見もあるが、「片手サル」の流れで見る限り、石工のペースで一方的に進めていることが分かる。

「邪鬼面」のCは僧侶名?がずらりと並んでいるところから講のメンバーの仏像に関する知識レベルは相当高いと思われるが、前年のAB二体と全く同じ青面金剛の姿で作られており、講のメンバーからこういう姿にしてほしいという注文はなかったようである。

注文主が選ぶのは塔のサイズや様式(笠付きかどうか)、「奉山王」などの文字、青面金剛か地蔵庚申か文字塔か程度であり、青面金剛の姿などは石工まかせであったようであり、庚申塔の姿を信仰に結びつけて解釈するのはこじつけになる恐れがあるので注意が必要である。


 

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