ショケラを下げた薬叉  (第4報)             日本の石仏No93(2000春号)
   −江戸青面金剛の起源を探る−                    目次に戻る
初期の庚申研究において、石仏の青面金剛は寛文元年に江戸石工により創案され流布されたとされた。その後地方でこれより早い時期に作られた様式の違う青面金剛が若干発見されてはいるが、それらはあくまでも例外と考え、主流としては寛文の江戸石工の創出が起源と考えることが多い。
下図の江戸初期の青面金剛庚申塔4基は作風がよく似ており、同じ石工または同じ工房による連作と考えられる。
江戸最古の青面金剛なので、この石仏が作られた経緯を解明することで、青面金剛の謎を解く手がかりが得られるのではないかと期待する人が多かった。

この連作は二童子四薬叉などが共通部分が多い一方で、本尊の青面金剛が剣人型-->三面剣索-->儀軌四手と次々に変化するのが不可解である。(初期青面金剛は同じデザインで連作される例が多い。−−茅ヶ崎大曲型の例、第3報の片手サルや邪鬼面の例)
またZ4の四薬叉の一つがショケラを下げているのが石仏として大変異例である。

「ショケラを下げた四薬叉」の流れを追求することで、この連作は江戸石工の創作ではなく、関西の庚申寺院の絵図や木像をモデルにしたものであることが分かった。寛文より早い時期に関西ではすでに青面金剛信仰が普及し、ショケラを持つ青面金剛も完成していた。
ショケラの意味を考える上にも重要なヒントになるので、以下に推論の過程を報告する。
Z1 寛文1 板橋 Z2 寛文2 板橋 Z3 寛文3 所沢 Z4 寛文4 浦和
X2は九五年の町田市立博物館「青面金剛展」で「儀軌に忠実に描かれた青面金剛図」として展示された掛軸(大和郡山金輪院旧蔵)だが、珍しいことに四夜叉の一人がショケラを下げている。

筆者は最初にこの図をを見たとき、「ショケラが普及したのち、儀軌の青面金剛とショケラを両立させようとして本尊の手が足りないので、夜叉の一人にショケラを持たせた」として、ショケラが普及した元禄以降の新しい作品と考えてしまい、画面や色彩ががきれいで比較的新しいように見えることもあって、これまでとくに関心を持たないでいた。

最近、Z4の初期青面金剛の夜叉がショケラを持っていることがS34年の清水長輝氏「庚申塔の研究」に記載されており、日本石仏図典「四薬叉」の項にも薬叉の持つショケラの記事があることに気が付いた。
清水氏は「標準型(剣人型)が普及しているにもかかわらず、しいて儀軌に頼って四手としたため持ち物が余って夜叉に押し付けた」と書いており、前記の絵図を見たときの筆者の感想と同じである。
しかしZ4の寛文四年の時期には江戸では剣人型の石仏はほとんど普及して居らず、清水氏がいうような推論は成り立たない。

改めて調べて直して見ると意外な事実が次々に発見された。
大和金輪院には、X2以外に、秘仏として六十年に一回公開される「本尊の掛軸」X1があり、大変痛んでいるがX2とほぼ同じ図柄である。写真で詳細検討したところ、X1の夜叉も同じ位置に同じポーズのショケラを下げていることが分かった。X1の痛みがひどくなったために模写してX2を作り、X1を秘仏として非公開にしたものであろう。
X1 大和郡山市 金輪院本尊 X2 青面金剛展(金輪院) T1 金輪院お前立ち木像
T2 青面金剛展(金輪院)木像 YA 大津絵 四天王寺系お札
(このX1は、窪徳忠氏の「庚申信仰の研究」に白黒写真で掲載されている。同記事ではX1より更に古いX0があったようにも読めるが、これは窪氏の聞き違いで、X1が室町時代からの古い掛軸であることが地元の郷土史資料その他からはっきりした。)
金輪院には掛軸X1 X2の他に剣人型の青面金剛木像T1と四薬叉 三猿 本尊から成る木像(群)T2がある。
T1は鎌倉時代の彫刻を思わせる雄渾な作品であり、「時代的にやや下がった室町時代乃至江戸初期の作品」とされている。青面金剛の普及時期などを考慮して時代を少し下げたのであろう。
T2は青面金剛、四薬叉、三猿を別々に彫り、雛飾りのように並べるようになっている木像であり、本尊と薬叉の一人がそれぞれショケラを持つ更に変わった構図である。手が足りないので薬叉に持たせたという理屈はここでは成り立たない。
T2の四薬叉は鬼ではなく神将のような衣装を付けており、独自のスタイルの薬叉である。
以上のように金輪院の絵図X1 X2、木像T1 T2のすべてがショケラを持っていることに注意していただきたい。
一方江戸の寛文初期の庚申塔連作について、Z4のほかにZ3の夜叉もショケラを下げていることを発見した。Z3と同じ構図のZ2にもZ3と同じ位置にショケラらしい痕跡が見られる。
Z1は剣人型であるからショケラを持っている。すなわちZ1〜Z4の連作石仏すべてがショケラを持っていることになる。
ショケラを下げた石仏青面金剛やショケラを下げた青面金剛絵図はいくらでもあるので、よく似ていても石仏と絵図の関係は議論できない。
しかし「ショケラを下げた夜叉」となると話は別である。絵図にも石仏にも他に例がない上に、石仏は寛文三年四年というもっとも初期のもの、絵図や木像も戦国から江戸初期につながる大変古いもののようである。これらの間にモデル−コピーの関係がある可能性が大きい。
筆者はまた前報において大津絵YAの本尊がZ4に写され、YAの漫画風の四薬叉がZ2,Z3に写されていることをすでに述べた。
以上から次のように推論が可能である。
寛文元年の時点で、金輪院にはX1の絵図、T1とT2の木像などが全部揃っていた。また初期大津絵YAもその時点で入手可能であった。
寛文元年の江戸石工は、江戸で初めて青面金剛像を作るに当たって、関西方面の庚申関係の寺院を訪問して積極的に取材し、次のような資料を収集した。

大津絵YA
金輪院 掛け軸X1のスケッチ
剣人型青面金剛木像T1のスケッチ
4薬叉3猿付青面金剛木像T2のスケッチ
三面青面金剛の絵図(未発見−推定)

(X1とX2の二鬼はポーズが異なる。Z4に腕を突っ張ったX1の二鬼が写されていることから、江戸石工の取材した当時の掛け軸はX2ではなくX1だったと推定した。「腕を突っ張った二鬼」は、X1,Z4に出てくるだけで、その後の石仏やお札、掛け軸の二鬼はポーズが違う。)

江戸石工は、取材入手した資料すべてを有効に活用することにし、部品の組み合わせをいろいろ変えて、Z1〜Z4の多様な青面金剛を製作した。

Z1本尊のモデルは金輪院の木像T1(剣人型)である。
Z4儀軌型本尊のモデルには、X1の本尊が複雑過ぎて石に彫りにくかったこと、痛みがひどく詳細が見にくかったことから、適当に省略された大津絵の儀軌四手像を使ったらしい。(大畠訂正:Z1は四天王寺系お札の図柄をほとんどそっくり写したらしい。)

Z2〜Z3には大津絵のコミックな四薬叉を使ったが、薬叉にショケラを持たせる構図はX1/T2からの借り物でショケラの姿はT2(正面)のものである。
大津絵YAと金輪院のX1 T1 T2を合わせるとZ2、Z3の本尊以外の部品が全部揃っており細かい点まで一致する。

足りないのは三面の本尊だけである。おそらく別にもう一枚三面青面金剛の図も入手していたのであろう。
三面の青面金剛は初期の庚申縁起にしばしば次のような文章で登場する。
当時の庚申寺院に絵図か木像が存在していたのであろう。
「三頭六臂形像。頭戴白蛇。頚掛猿白骨。腰帯五色麟竜。総身螢小蛇。
 全躰青色。 左三手。持弓輪輪宝。右三手。鉾矢珠持。踏脚獅子」
獅子を踏む青面金剛はこれまで見たことがないが、木像T1の踏む邪鬼は頭が大きくずっしりとした質量感があり、ライオンのようにも見える。庚申縁起の「踏脚獅子」はこれを指すのかも知れない。この大型の邪鬼はZ2とZ3に取り入れられている。

以上からZ1〜Z4の連作において、本尊の姿が次々に変わっていること、四薬叉の衣装やショケラの姿ががそれぞれ異なることなどの謎もすべて解ける。江戸石工は関西で収集した資料をすべて活用して良いとこ取りのモンタージュでいろいろな青面金剛を試作して見たかったということであろう。


 
モデルとコピーの例1

Z4の本尊(儀軌四手)は、X1とYAのコピーである。
腕の形や衣装、炎の光輪が一致。

Z4の四薬叉はX1のコピーである。
四薬叉の内、三人までが同じポーズを取っている。
衣装が同じ(四薬叉は虎皮のパンツまたは褌が普通であるが、X1とZ4は長い裾が翻っている。

腕を突っ張って耐える二鬼が共通で、他の石仏や絵図に例がない。
モデルとコピーの例2

Z2の四薬叉は大津絵YAをコピーしたもの。
ギョロ目、短足、ガニ股のユーモラスな姿。虎皮の上にふんどし、頭を掻く赤鬼。

Z2とZ3は本尊四薬叉ともほとんど同じデザイン。

大津絵YAの二番目の四薬叉がそっぽを向くのは、四天王寺系掛け軸、お札を参考にしていることを示す。

虎皮パンツの上にフンドシを重ねるのも掛け軸から採ったもの。

ショケラの意味について
以上の推論から、ショケラもまた青面金剛と同じルートで寛文元年に関西から江戸へ導入されたことが分かった。ショケラは寛文元年よりずっと以前に大和金輪院の僧侶によって考案され、掛け軸や木像に描き込まれたことになる。
そうであれば、ショケラの起源や意味についても金輪院の僧侶の思考をたどればよいことに話はかなり楽になる。

江戸石工は金輪院に取材に出かけた際、本尊の掛軸以外にもT1 T2の木像を見せてもらうなどいろいろ便宜を払ってもらっている。
石工は当然ながらショケラ(吊り下げられた女人)の意味について疑問を持ったはずで、金輪院の説明を受けて持ち帰ったものと思われる。金輪院の説明の内容は知る由もないが、掛け軸と庚申塔を見比べると次のような推論が可能である。

a)掛け軸X1(X2)は「儀軌通り正確に描かれた絵図」であるが、細かく見ると何故か「棒に巻き付いたヘビ」が省略されている。儀軌に書かれた姿から「棒に巻き付いたヘビ」だけが省略され、その代わりに「薬叉の持つショケラ」が追加されているのである。
b)江戸の庚申塔Z4は、大津絵Aをそっくりモデルにした作品である。しかし大津絵Aから「棒に巻き付いたヘビ」が省略され、その代わりに「薬叉の持つショケラ」が追加されている。棒の形は大津絵Aとそっくり同じバナナ型なのにヘビだけが消されている。

江戸石工が「ヘビを省略してショケラを追加」したのは偶然ではなく、金輪院の僧侶から聞かされたショケラの説明を取り入れたものと思われる。すなわち「ショケラ(女人)は棒に巻き付いたヘビと同じ意味であるからショケラを描くなら重複を避けるためヘビは省略する」というのが金輪院の説明だったのではないだろうか。

<庚申講について金輪院の思想>
慶長二年の金輪院庚申縁起により、金輪院の庚申講の考え方を知ることが出来る。内容のほとんどは「三尸虫の害の具体的な説明と、庚申信仰によりこれを封じることで健康になり運勢がひらけるという効用」である。庚申講の目的は三尸虫を青面金剛の力で封じることであった。

「青面金剛の力で三尸虫を封じる」のが庚申講の目的だったから、青面金剛が三尸虫を退治している姿を絵や彫刻にしたいという要望が出るのが当然である。
しかし「虫に見立てた蛇を退治している姿」というのは意外に難しい。蛇を手で握ってぶら下げて見せても蛇を退治しているのか、蛇を可愛がっているのか見分けが付かない。もともと青面金剛は蛇と仲が良く、ペットにしていたことも話を複雑にする。蛇を踏みにじったり二つに引きちぎったり、蛇を退治している姿を表現しようと苦心している青面金剛像に出会うことがよくある。

三尸虫と女人との結びつき
「三尸虫を封じる姿」のアイディアを蛇以外に求めて、金輪院の僧侶が仏典や仏像集を探索した結果、商羯羅天に到達する。
庚申縁起には「ショケラの歌」が引用されていることが多く、ショケラ=三尸虫であることは誰の目にも明らかである。

「三尸虫=ショケラ」であり、「ショケラ=商羯羅天」であるから、商羯羅天を征伐する姿を作れば、三尸虫を封じていることになるという仏教の僧侶の考えそうな理論である。商羯羅天とは摩醯首羅(シヴァ=大自在天)の別名であり、大自在天を踏む降三世明王などの仏像のモデルがすでにある。

大黒天(マハーカーラ)が髪を吊り下げている人物がショケラのモデルの一つであることは従来から言われていたが、この人物も実はシヴァであることを前報で述べた。もしそこまで分かってのことだったら更に完璧な理論である。
ショケラについて「商迦羅」の漢字を使っている庚申縁起もあり「商羯羅」との文字の酷似も考慮に入れて良いであろう。

掛け軸から見るとショケラは最初から女性の姿であった可能性も高い。
その場合、彼らが商羯羅を探し出したのは「諸説不同記」という日本最古の仏像研究書だったことになる。この本には何故か商羯羅天(男性)の名前がなく、商羯羅后妃(女性)だけが登場する。(単なる書き落とし)

直接ショケラを退治する姿を描く以上、もはや棒に巻き付いた蛇は重複であり不要である。金輪院絵図X1 X2で、黒薬叉がショケラを下げ、棒に巻き付いた蛇が省略されているのは意味があってのことあった。江戸石工はこの説明にしたがって、Z4では大津絵Aをほとんどそのまま写してあるにもかかわらず、蛇だけを省略した。

大和金輪院のやや後世の庚申待縁起(文政十三年)では「三尸虫」が消え、人の身体につきまとう「霊魂鬼神」を「青面金剛が滅ぼし平らげる」という表現に変わる。
「・・生まれし其日より病脳苦悩種々の災患を起せる霊魂鬼神身に付添て、身心を苦しめ悩ます事、人力を以て是を避ることあたわず。・・庚申の日・・其日を主り給ふ青面金剛薬叉明王は・・大忿怒の形を現し、・・無数億の眷属を具して・・人間の身を煩はす霊魂鬼神のたぐいをことごとく滅ぼし平らげ、微細に降伏せしめ給う。・・」
霊魂鬼神を征伐し降伏させる姿は剣人型青面金剛のイメージそのままである。ショケラが手を合わせているのは礼拝ではなく降伏者の命乞のポーズである。

以上の経過であれば、女人像は当然ショケラと呼ばれていたはずであり、ショケラが様々な悪事をするので、青面金剛が髪をつかんでこれを封じていること。それが庚申信仰の目的であるという庚申寺院の説明になっていたはずである。

窪徳忠著:庚申信仰の研究(S30)によると、福井の美浜町に「ショケラ」の名称が「ショケラがいろいろ悪いことをするので、庚申の神様が髪をつかんであばれないように押さえ込んでいる」という伝承とともに正確に伝わっている。

福井は江戸を中心に考えると遠く離れた片田舎のように見えるが、関西から見ると琵琶湖をはさんで地理的にも心情的にも京都に非常に近い土地である。
ショケラの起源が江戸ではなく関西であることが分かった今、江戸中心の考えを改める必要がある。
福井は江戸時代から京都への参詣者が非常に多い地域である。寺院で直接聞いたショケラの説明が伝えられ今でも残っているのであろう。
福井美浜町の庚申講は全国でも珍しい家単位の庚申講であることも考えておく必要がある。親から子への伝承は、不特定メンバーが集散する地域の庚申講の伝承よりもずっと正確に伝わってきたはずである。  注1) 福井の「ショケラ」

窪徳忠氏は「庚申信仰の研究」において、「この呪言と伝承は、日華の庚申信仰の関係を考える上で、重要な意義と価値を持つ」としたが、学会の大勢としては「全国で福井の三例しかなかった」「江戸でショケラと呼ばれた証拠はない」として「証拠不十分」の扱いを受けているようである。
この学会の意見は、「女人がショケラと呼ばれたという確証がないから、女人=ショケラを論理の出発点にしてはいけない」という意味に過ぎなかったものが、「仏典のショケラと庚申のショケラとは何の関係もない」という結論が出たかのように誤解されて一人歩きし、これまでショケラの謎の解明を遅らせていた気がする。

<各種庚申縁起より、抜粋>
全国の庚申縁起を見ても「棒に巻き付いた蛇」「ショケラ(女人)」の意味の説明はほとんどないが、金輪院以外の庚申縁起から関係ありそうな事項を拾った。

<京都延命院>
左の下の御手に持給う宝棒に一つのマムシ捲置給う。是は三界あらゆる衆生の胎内に色々の虫あり。是より病気出るを、我それぞれに替り衆生を助けんとの事也。
この縁起では「棒に巻き付いた蛇」は「三尸虫封じ」を表現したものであることが明記されている。

<岐阜県恵那市:「青面金剛王垂化記」>
二人の童子出現有。一人は剣を持ち来たりて太子に与えていわく この剣は・・諸魔降伏の利剣也
一人は白蛇を抱来て、この蛇は人間身内の三毒、一切の病難の虫を抜き取る也。
「棒に巻き付いた蛇」ではないが、蛇が三尸虫封じの道具とされている。

<兵庫県出石町金蔵院 文久元年>
六手青面金剛の持ち物一つ一つについて説明がある。
「左の御手に三尺二寸の金剛王宝剣を持ち、悪魔降伏し怨敵を退散し給う。 右の御手に阿呼秘宝の輪宝を持して七宝を授与し、病則消滅し給う。 一の御手に寸善尺魔を封じ、安全を令得。」 以下・・・神通の宝弓、如意通天の矢、鉾剣・・・と説明が続く
消去法で読むと「寸善尺魔を封じ、安全を令得」の部分がショケラに当たる。 「寸善尺魔」とは「世の中に善いことばかりはない。むしろ悪いことの方がずっと多い(ので善いことが続くときは要注意)」という意味の「好事魔多し」に似たことわざであり、これを封じるというのは文脈としておかしい。本来は「尸魔を封じる」という意味だったのではないかと思われる。(尸はしばしば尺と誤記される。)

ショケラの語源
平安時代、藤原清輔の書いた「袋草紙」に次の「しや虫の歌」がある。
 しや虫や 去ねや 去りねや 我が床を
       寝れど寝らむぞ 寝むぞ寝たれど」
室町時代以降作られた「庚申縁起」や「庚申の大事」の多くに次の「ショウケラの歌」が載せられている。 
 しょうけらや 去ねや 去りねや 我が床を
       寝れど寝らむぞ 寝むぞ寝たれど」
これらは人が寝入るのを待ちかねている「三尸の虫」に対して「俺は寝ないぞ、寝ていても寝てないぞ」と宣言する呪文であり、「しや虫」も「ショウケラ」も明らかに三尸の虫を示している。
しかし「しや虫」が「しょうけら」に転訛した理由についてこれまで納得のいく説明がなされていなかった。
袋草紙の「しや虫」と庚申縁起の「しやうけら」をつなぐ著者の仮説を簡単に紹介しておく。

1)最新版「袋草紙」(新日本文学大系29 岩波書店 1995)によると、袋草紙の原本は「しやむし」ではなく、「しや□むし」であり、□の部分に1〜2文字分の判読不能な文字が入っていたことが分かった。
岩波本の編集に当たって十三もの諸本が参照されているが、そのうちで続群書類従本だけが「しや虫」であり、他の本のこの部分はすべて「しや□むし」のようにブランクになっている。

2)「三尸虫」すなわち「尸虫」の訓読みは「シャクタレ虫」だったと思われる。
「尸」は独立した漢字であるが漢字の部首でもある。漢和辞典では「シカバネ(カンムリ)」と呼ばれているが、形の似た「雁(ガンダレ)」「麻(マダレ)」「病(ヤマイダレ)」などとの比較から、「カンムリ」ではなく「タレ」であるべきである。尸のついた漢字の代表として「尼」「屁」「尻」「尿」はタレを付けると具合が悪く、もっとも簡単な「尺」のタレすなわち「尺タレ」が適当である。。
(山崎闇斎の著書に引用された袋草紙の歌では何故か「しや虫や」でなく「シヤタレや」となっていることが従来から指摘されていた。)

3)袋草紙の原本は「しやくむし」であり、「く」には「具」のくずし字が用いられていたと思われる。後世写本の際、達筆で文字が崩れていたため判読出来ず「しや□むし」とブランクのままに書き写された。
一方、図で示したように「具」を極端に崩すと二文字のように見え、「く-->けら」と誤読される可能性がある。庚申縁起が作られる際、「しやく」を無理に「しやけら」と呼んだため、「ショウケラ」などの名前が伝承されることになった。

ほとんどの庚申縁起にはショケラの歌が引用されており、ショケラ=三尸虫であることは明らかだが、「ショケラとは三尸虫のこと」と積極的に説明した縁起が一つもないのは、その意味(語源)が最初から分からなかったためであろう。
また語源が分かっていれば、「しょうきゃら」「青鬼ら」「そうきゃら」「しょうきょう」など混乱して伝わることもなかったであろう。
ショケラが「く-->けら」の誤読から始まった以上、誰にも語源が分からなかったのが当然である。

追記1
投稿した後、「青面金剛展」のカタログを入手し、モデルーコピーの関係を更に追加検討した。以下のように追加修正しておく。

カタログには、「四天王寺系お札」、「四天王寺系掛け軸」として分類出来る多数の絵図が含まれている。四天王寺は庚申堂の総本山的な存在で、各地の庚申塔が創立されるとき免許料を取って暖簾分けし、お札や掛け軸の使用権を与えたのであろう。四天王寺系お札と掛け軸は江戸の早い時期に確立し、その後数百年間デザインがほとんど変わっていない。

(1)Z1の剣人型はT1がモデルとしていたが、むしろ四天王寺系お札をそのままコピーしたものと見たい。@腰から垂れ下がる二匹の蛇(お札は二匹の竜)A二童子の一人が香炉を持っていない。などが根拠である。
寛文元年時点で四天王寺系お札(剣人型)はすでに確立していたことになる。

(2)四天王寺系お札の特徴の一つは、「バッターの構え」をした薬叉(右から三番目)である。このバッターがZ4およびX2にコピーされている。(X2がZ4にコピーされた可能性もあり、迷っている。)
Z4のバッター以外の薬叉はX1がモデルである。

(3)四天王寺系掛け軸の特徴の一つは二番目の薬叉が別な方向を向いていること(「そっぽを向く薬叉」)であるが、それが大津絵YAにちゃんと写されている。
大津絵YAの漫画風の薬叉がZ2,Z3にコピーされていることは既に述べた。(とくにZ2の「頭を掻く薬叉」は大津絵の赤鬼のポーズである。)
したがって、三段論法から、寛文2年以前に四天王寺系掛け軸(剣人型)も完成していたことの証明になる。

注1)福井の「ショケラ」の評価

戦国の始め、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如は延暦寺との抗争を避けて大津から福井の吉崎御坊に移り、北陸を中心に浄土真宗の布教活動を行った。その結果、信者が急増し、一大政治勢力となって戦国の動乱に巻き込まれそうになったため、これを避けて山科本願寺に移る。その後様々な経過を経て、3〜4代あとの後継者の時代に京都本願寺に落ち着く。詳しいことは蓮如の伝記を読んで欲しい。

福井の信者の間には、本願寺は自分たちが盛り立てて中央へ進出させたという自負があり、国会議員の地元後援会的な気分もあって、毎年、団体で京都本願寺参りをする習慣が江戸時代から今でも連綿として続いている。
福井と京都の間は江戸と箱根くらいの距離である。琵琶湖には京都に物資を運ぶための船が往来しており、病気など万一のときは舟で送り返してもらえる安心感もある。年中行事だから道案内人や途中の宿の受け入れ態勢も完備していたであろう。福井の人は気軽に生涯に何度も京都参りが出来たのである。
本願寺に参ったあとは自由行動で京都や奈良の観光が出来たであろう。たまたま庚申寺で青面金剛の有り難いお話を聞いた人が、持ちかえって自分の家の伝統行事として取り入れ子孫に伝えた。初期の庚申信仰は、個人信仰から始まったらしいことは片桐貞隆や藤林宗源の例でも分かる(窪氏著書)。

福井の家単位の庚申講はこうした初期の庚申信仰の姿が伝わったたものと思われる。
地域の庚申講は不定期でありメンバーも集散するため、勝手な想像や作り話が付け加わって伝承が不正確になるのに対し、家単位の庚申講での親から子へは正確に伝わる。福井の事例では「ショケラ」の名前だけでなく、
「ショケラが悪いことをするので庚申の神様が髪を掴んで封じ込めている」という表現で金輪院庚申縁起の内容やショケラの意味がほぼ正確に伝わっており、窪氏の調査でショケラの本来の意味を伝える唯一の地域であることは無視できない。

1590頃金輪院僧侶が最初に作ったときのショケラの意味は、寛文元年(1661)時点ではまだ金輪院の僧侶ははっきり理解しており、江戸の石工に説明してZ4の姿に反映された。しかし、その後金輪院でもショケラの意味が忘れられてしまったようである。
明治12年の金輪院お札の版木にはX2を正確に写した青面金剛像が描かれているが、棒に巻きつく大蛇が描き加えられている。(青面金剛展カタログ)「儀軌に忠実な青面金剛」であれば、棒に巻きつく蛇を描くのが当然なのである。
わざわざ大蛇を省いた意味―すなわちショケラの意味が明治12年時点には忘れられていることを示す。

初期の説明が京都近くの福井の田舎にそのまま残り、本元の金輪院では完全に忘れられた。ちょうどインドで消滅した密教が、近くのチベットに伝わって現在までそっくり保存されていることのミニチュア版である。

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参考資料
青面金剛展(1995)カタログ                                                   目次に戻る
芸術新潮(95年4月号)「青面金剛展」記事
「大和路かくれ寺かくれ仏」S57 講談社
            
追記2
関西庚申信仰の年代などを追加調査し、2000年3月の石仏談話室で一部発表した。
関西庚申信仰の年表を下に添付してある。

1618〜1645頃、関西各地で庚申堂の創立や再建が相次いで行われており、関西ではこの時期に庚申信仰が普及し始めたらしい。

四天王寺系お札や掛け軸のデザインが確立したのもこの時期で、四天王寺系庚申堂では最初から青面金剛が本尊だったらしい。
江戸青面金剛第一号(寛文元年1661)より数十年も前である。江戸青面金剛のモデルが関西だったという「青面金剛進化論」の結末も決して意外なものではなかったことになる。むしろ数十年間も何故江戸に伝わらなかったかの方が意外である。

Z1〜Z4を除いて,その後も四天王寺系など関西の青面金剛の絵姿は関東の庚申塔に反映していない。
例えば関西の青面金剛はすべて炎の後光輪を持っているのだが関東の青面金剛石仏で光輪を持っているものは(Z1〜Z4と取手の寛文九を除いて)ほとんどなく、炎の光輪は皆無に近い。

関西には庚申塔の数は驚くほど少なく、しかも文字だけのもの、年代の入っていないものがほとんどであるとのことである。
(したがって石仏だけを見ていると、いかにも江戸が起源であるように見えてしまうが、関西では石仏以外の絵図などの形で青面金剛信仰が普及していた。)

★関西の庚申信仰については、飯田道夫氏「庚申信仰」(1989人文書店)が大変参考になった。
ただしこの本で引用している文献資料の発行年に重大なミス(寛永と寶永の誤りらしい。)が二三あることが分かり、著者にも連絡してミスを確認して貰った。「山崎闇斎の生まれる前から猿田彦庚申堂があった(p217)」などの結論はそれから来たもので、資料発行年がからむ部分はうのみにせず、すべて見直す必要がある。
関西関係の地誌(地理や郷土史)は角川版「奈良の地名」「京都の地名」シリーズに要領よくまとまっており、発行年を含む地誌資料リストも掲載されている。

★この時期の関西の各地に「庚申堂再建」という記事がたくさん出てくる。「老朽化しての再建」ではなく、もとはお粗末な小祠だったものが、庚申信仰が広まって参拝者が増加してきたので、もう少しましなものに建て直したということであろう。そう解釈すると関西の庚申信仰の時期がはっきりしてくる。

X1の掛け軸は片桐貞隆が戦場で「お守り」として持ち歩いていたものを、貞隆の死後、もらい受けて金輪院庚申堂の本尊としたもの。貞隆の戦歴(下記の年表)から考えて、1580-1590以前(豊臣時代)の話であり、ショケラもその時代に考案されたことになる。

金輪院(小泉庚申堂)と掛軸X1の関連年表   庚申信仰/青面金剛信仰の絶対年代の推定資料

1578 天正6   片桐貞隆初陣(三木攻めで論功行賞)
           本能寺のあと、秀吉は天下統一の国内戦争に明け暮れる。
           貞隆は秀吉の旗本として、ほとんどの戦争に出陣したであろう。
           戦場にて,貞隆が青面金剛掛軸X1をお守りとする
1590 天正18   小田原攻め 北条氏滅亡で国内戦争は終結
1597 慶長2    朝鮮出兵(慶長の役) 秀吉(貞隆)最後の戦争

1597 慶長2   金輪院庚申縁起(写し)現存
1600 慶長5   関ヶ原の戦い(豊臣家は中立を保ち参戦せず)
1615 元和1年  大阪夏の陣ー豊臣滅亡 (貞隆らは参戦せず)

1615 元和2年  片桐貞隆1万6千石、大和小泉藩主(旦元は4万石)
1618頃 元和4  四天王寺再建 (片桐貞隆普請奉行)
1630 寛永7   粟田口庚申堂(三猿堂)再建       (-->寛永17 茅ヶ崎三猿塔)

1640頃?    貞隆没後(1627)二代藩主 片桐貞昌の家老の藤林直良小泉庚申堂建立

            小泉庚申堂創立 先君のお守りだった掛軸X1を本尊にしたいという強い希望があったが、行方不明。
            庚申堂工事終わり、四天王寺の僧もすでに招待し、開眼儀式の準備万端整える。
            前夜になって、ようやく掛軸X1が見つかり、当初の構想通りに掛軸X1を本尊にした。

1659 万治2   片桐貞昌が小泉庚申堂に八石を寄進、片桐一門の繁栄を祈願。
1660 万治3   天台本山座主に「金輪院」の額を書いて貰うに当たって、寺僧に命じて寺伝を作成

1661 寛文1   江戸石工に青面金剛の資料を提供。江戸第一号の青面金剛制作。

関西地方その他の庚申堂  京都 〇 八坂の庚申堂  青面金剛   慶長10年創立説
                     〇 粟田口の庚申堂 1630再建 三猿堂  当時三猿。のち青面金剛導入。

                  大阪 〇 四天王寺庚申堂 青面金剛発祥地 庚申堂の総本山
                         1618頃再建--−−そのまま昭和20年の戦災まで続く
                                                                   目次に戻る

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