第5報 日本の石仏100号記念特集「私の石仏研究」      目次へ
「青面金剛進化論」review 日本の石仏No98(2001年夏号) ほぼ原文通りだが、図面と補足説明を少しだけ追加した。
青面金剛進化論

申年の年賀状に三猿を描いて見たのがきっかけで、庚申塔や青面金剛に関心を持つようになっていた。
たまたま目にした仏教の本に説明抜きで挿入されていたチベット寺院のマハーカーラ壁画のカラー写真(右図)を見て、思わず我が目を疑った。
青色の体、大張口から突き出る牙、炎髪に隠れた小ヘビ、額のドクロ、三眼、バンド代わりに腰に巻きついた二匹の大蛇、ドクロ(生首)を連ねた首飾り、四匹の小鬼・・何から何まで儀軌に記述された青面金剛にそっくりではないか。
「神道、儒教、仏教を混ぜ合わせて作りあげた仏様とも神様ともつかぬお方」とされていた青面金剛とチベット仏教寺院の壁画とがどうつながるのか全く見当もつかなかったが、この酷似は尋常ではなく、密接なつながりがあることだけは間違いなかった。「青面金剛のオリジンを探る旅」の発端である。

マハーカーラ、ヒンズー教、チベット仏教、平安の仏像、大津絵・・・と全く未知な分野の勉強が二年ほど続き、ようやく第一報の内容にまで到達した。当時の筆者は「青面金剛のオリジン探索は時間と空間を超えて未知の世界を駆け巡る壮大な知的探検の旅であった・・」とその感動を書き残している。
日本の石仏庚申特集号への掲載、読者の反応,さらに石仏談話室での研究発表などがきっかけとなり、励みにもなって、ショケラの謎解き、江戸青面金剛のオリジンなど当初予想もしていなかったところにまで研究が進み、思いがけない結果も得られた。
これまでの常識からでは異端としか思えないはずの研究にいろいろな形で発表の機会を与えていただき、激励していただいた日本石仏協会会員の皆様に深く感謝したい。それがなかったら私の青面金剛進化論は多分第一報の段階で自己満足し、それで終わっていただろうと思われる。

 

青面金剛進化論の概要
(1)儀軌の四手青面金剛

AD500年頃、インドの仏教は大きく変貌し密教が生まれた。ヒンズー教に対抗するために、ヒンズー教のシヴァ神の形を借りた憤怒神マハーカーラが作られるが、あくまでも仏教の神であることを示すためにシヴァ夫妻などヒンズーの神を踏む姿に作られる。初期のマハーカーラの絵図が中国に流れ「病を流行らす悪鬼」青面金剛と誤伝される。
同じマハーカーラがチベットに入り、ドクロ杯などチベット仏教の聖具を持つ二手が加えられて寺院の壁画に残った。三叉戟や蛇の巻きついた棒など儀軌青面金剛の持ち物のいくつかはシヴァ→マハーカーラ→青面金剛の流れで伝わったものである。
陀羅尼集経九 大青面金剛呪法
一身四手。
左辺上手把三股叉。下手把棒。
右辺上手掌拈一輪。下手拈羂索。
其身青色。
面大張口。狗牙上出。眼赤如血。而有三眼。
頂戴髑髏。頭髪聳堅如火焔色。頂纏大蛇。
両膊各有倒懸一龍。龍頭相向。其像腰纏二大赤蛇。
両脚腕上亦大赤蛇。
所把棒上亦纏大蛇。虎皮縵胯。髑髏瓔珞。

儀軌に詳細に描写された4手像がほとんど作られなかった理由。
4手像は悪鬼の時期の姿として嫌われたためであろう。
像両脚下安各一鬼。
其像左右両辺各当作一青衣童子。髪髻両角手執香炉。
其像右辺作二薬叉。一赤一黄執刀執索。
其像左辺作二薬叉。一白一黒執銷執叉。
形像並皆甚可怖畏。手足並作薬叉手足其爪長利。
2)六手青面金剛

青面金剛はもと病を流行らす悪鬼であったが、のち改心して病魔を駆逐する善神になったとされる。(渓嵐拾葉集)

病気を流行らす悪鬼を祈伏するとか、ほかの鬼の力を借りて駆逐するとかの行為は、修行を積んだ行者や高僧でしか出来ないことで、素人が生兵法で真似をすると鬼が暴走したりしてとんでもないことが起きる。

平安時代に、誰でも安心して礼拝できる善神の青面金剛(明王)像が求められた。
金剛夜叉明王(三面五眼六手)をモデルにして、穏やかな姿の正面金剛夜叉明王(一面二眼六手)が作られ、後の六手青面金剛の基本形になる。

(凶悪な病魔と戦うには穏やかすぎるなど、二三の問題点もあり、若干モデル修正されたものが基本になる。)

金剛夜叉明王は「3面5眼」。刀を振り上げ怒り狂ったポーズ。
「青面金剛夜叉明王」では「青面」を「正面」と読み替えて
「ノルマルな顔=1面2眼」とした。鈴の音に聞き入る穏やかなポーズに変える。

 

3)江戸青面金剛のモデル

江戸最古の青面金剛である板橋の寛文元年(Z1)、寛文二年(Z2)は青面金剛のルーツとされ、その製作のいきさつを知ることが青面金剛のオリジンを探る重要な鍵になると言われていた。
所沢の寛文三年(Z3)、浦和の寛文四年(Z4)は、Z1/Z2との共通点が多く同じ石工(工房)の連作と思われる
Z1 寛文1 板橋 Z2 寛文2 板橋 Z3 寛文3 所沢 Z4 寛文4 浦和  

Z1は剣人型なので本尊がショケラを持つ。Z4は以前から「ショケラを持つ夜叉」(向かって右上)で有名。
Z2/Z3はこれまで誰も指摘していないが、よく見ると向かって右下の夜叉がショケラを持っている。


「ショケラを持った夜叉」という珍しい姿を手がかりにしてモデルとコピーの流れを探った結果、大和郡山市金輪院の本尊の秘仏である古い掛け軸(X1)やその他の関西の絵図や木像がこれら初期江戸青面金剛のモデルであることを発見した。※挿し絵参照

X1 大和郡山市 金輪院本尊   X2 青面金剛展(金輪院)  

変色が進み分かりにくいが、黒鬼が
ショケラを持っている。最古のショケラ。
X2は本尊X1の忠実なコピー。
T1 金輪院お前立ち木像 T2 青面金剛展(金輪院)木像 YA 大津絵 四天王寺系お札


本尊と夜叉の両方がショケラを持つ。
X1とT1の折衷であろう。
X1は窪徳忠氏「庚申の研究」に白黒で紹介されているが、カラーで辛うじて判定できる程度なので、白黒写真では何が描いてあるのかまるで分からなかった。
カラー写真を、パソコンで明度調整してようやくショケラの姿が見えてくる。
黒夜叉の左手握り拳の下を注目。X2がX1の忠実な模写であることを知って比較すると分かりやすい。
X1も「半裸赤い腰巻きの女性」の標準型ショケラである。
X2は、基本的にはX1の忠実な模写だが、夜叉や2童子の衣装、2邪鬼のポーズは江戸時代の絵図類に歩み寄っている。虎皮パンツの上にフンドシを締めるのはおかしいと思ったらしく、4夜叉のうち2夜叉はパンツ、2夜叉はフンドシである
★ X1/YAとZ4の酷似。 ★ YAとZ2の夜叉の酷似。
★Z4のショケラ持ち夜叉が、X1の黒夜叉と同じポーズであることにも注意。
★江戸板橋の石工(工房)が、江戸で初めて青面金剛を作成するに当たり、万全を期するために、関西の青面金剛画像や関連情報を積極的に収集し、集まった資料の部品を組み合わせてZ1〜Z4をデザインしたものと推定。大津絵YAも市販品ではなくそのための特注品ではないか。
ショケラを持つ夜叉(石仏)  こうした画像が雑誌や写真集で紹介されたことがないことが問題−今後の情報交換の課題。
Z3:明らかにショケラ持ち
だが紹介されたことがない。
Z2:Z3と比較するとショケラの
痕跡が残っている。
Z4:「ショケラを持つ夜叉」として有名だったが、文章
だけで写真が紹介されたことがないのは意外。
(4)ショケラの創られた時期

金輪院(小泉庚申堂)のX1では四夜叉の一人がショケラを吊るしており、最古のショケラと思われる。
最初から「半裸で髪を吊るされた成人女性」という完成したショケラの姿であることは興味深い。

小泉庚申堂の掛け軸X1は太閤秀吉の家臣だった片桐貞隆(片桐旦元の弟、初代小泉藩主、)が信仰し、お守りとして戦場で肌身はなさず持ち歩いていたものを、二代藩主の時代に家老藤林宗源(石州流茶道の指導者)が庚申堂を創建したとき、片桐家から譲り受けて本尊としたもの。関連した人物や掛軸の素性がはっきりしており、貞隆の戦歴から考えて1580-1590以前の大変古いものである。

二童子や夜叉の衣裳が古風で江戸時代の像とは違っており、また奈良国立博物館の専門家も「室町時代の作品」と認定していることから、上記の言い伝えは正しいと思われる。
青面金剛もショケラも江戸最古の寛文元年青面金剛(1661)より数十年も前に関西で生まれ普及していたことになる。

★大津絵との比較でも、関西の青面金剛信仰が関東より数十年先行していたことが分かる。
土産物用として大量生産された大津絵の図柄が寛文9年の取手市小堀の庚申塔にそっくりコピーされている。(第1報参照)
寛文年間は、関東ではようやく青面金剛信仰が普及し始めたばかりで土産物など思いも寄らない時期である。
(5)ショケラの意味

ショケラを考案したと思われる金輪院の庚申縁起では庚申信仰の目的として、人間の体内に住みついて様々な障害をする三尸(鬼神霊魂)を青面金剛の力で退治してもらうことを強調しており、ショケラは「三尸征伐」を具体的な形で表現したものである。庚申縁起のショケラの歌から「ショケラ=三尸」であることは明らかである。「三尸」の代わりに「ショケラ=商羯羅天」を征伐する姿を作ったのがショケラの意味である。
商羯羅天」は大自在天(=シヴァ)の別名であり、シヴァ夫妻や大自在天を征伐する仏像のモデルは降三世や大黒天などに以前から存在した。
商羯羅天資料抜粋
諸説不同記卷第八 伊舎那天妃
具縁品釈有商羯羅妃在西方。印品説商羯羅后妃密印。三蔵軌出烏摩天真言。現図在伊舎那天之右。

新纂仏像図鑑
商羯羅と云ひ、大自在天と云ひ、摩醯首羅と云うも,之れ悉く同体異名なり。故に大疏第三に曰く「商羯羅是れ摩醯首羅の別名」と。また因明大疏には「商羯羅天、是れ摩醯首羅天,一切世界において大勢力あり」と。

曼陀羅事典
伊舎那天妃
(解説)伊舎那天の妃。
商羯羅后とも呼ばれる。
金輪院の庚申縁起抜粋  青面金剛による三尸征伐の姿を生き生きと描写しているのは金輪院の縁起だけである。
・・・人間の身としては、生れし其日より、病脳苦悩種々の災患を起せる霊鬼神身に付添て、身心を苦しめなやます事、人力を以て是を避くることあたわず。
・・・庚申の日を以て、庚申待を勤め、供養礼敬せぱ、其日を主り給ふ大自力青面金剛薬叉明王は、大悲の一門に普門の妙徳を開顕し、慈眼を以て衆生を見そなはしめ・大忿怒の形を現し、諸天善神無数億の眷属を具して、共に天降ましまして、人問の身を煩はす魂霊鬼神のたぐいをことごとくほろぽしたいらげ、徴細に降伏せしめ玉ふ
(6)ショケラの語源

ショケラの歌から「ショケラ=三尸虫」であることは明らかであり、異論を唱える人はいない。
しかし何故「ショケラ=三尸虫」なのか、ショケラの語源がこれまで誰にも説明出来なかった。

大畠説
「病ダレ」「雁ダレ」「麻ダレ」の例から考えて、「尸」は「尺のタレ」であるから、「尸虫」の訓読みは「しゃくたれ虫」である。袋草子の「しゃ虫の歌」は「しゃくむしや」または「しゃくたれや」であった。

「く(具)」を極端に崩すと右図のように2文字に見え、「けら」と誤読される可能性がある。

岩波書店の日本文学大系最新版によると、群書類従本以外の袋草子の写本には「しや」のあとに1〜2文字分の空白(判読不能文字を飛ばして写本)があることが知られている。・・・「しや□むし」

空白をつめて再写本されたのが「しやむし」であり、「く」を「けら」と誤読したのが「しょけら(しやけら)」である。
山崎闇斎の著書では「しやむし」の部分が「しやたれ」となっていることが指摘され、ショケラの謎の一つであったが、それも「しゃくたれ」から説明出来る。

注)「く」には、「具」のくずし字と「久=く」のくずし字がある。具と久の使い分けルールはないが、比較的きちんとした文章では「具」、メモ書きには「久」が使われることが多い。袋草子は二条天皇に献上された歌会作法の解説書であるから、当然「具」が使われていたと思われる。
注)訓読み
音読みにすると耳から聞き取れない場合、訓読みにして説明するケースがある。「私立=ワタクシリツ」「化学=バケガク」
「尸虫」をシチュウと読むと「市中」「支柱」・・との区別が付かず「尸虫」のイメージが出てこないので「シャクタレムシ」と読んだ。
今後の課題

これまでの庚申研究では庚申信仰や青面金剛信仰は江戸で始まり、徐々に地方に普及したというのが常識になっていた。

青面金剛進化論は、青面金剛の姿の変化を追跡しようとしたものであるが、研究の意外な結末として、青面金剛とショケラの起源は江戸ではなく関西であり江戸より数十年も先行していたこと、「徐々に」ではなく、数百キロの距離を一挙に飛び越えて、江戸に伝わったことが分かって来た。
青面金剛の起源が江戸ではなく関西であることが分かると、窪氏の全国調査「福井のショケラ」の位置付けも変わるし、茅ヶ崎の「日本最古の三猿塔」の評価も変わってくる。

頭の切り替えはなかなか難かしく、また大先輩たちの業績を批判することになるため抵抗感があると思うが、研究者各人でこれまでの定説や研究内容を一つ一つ見直して頂きたいと思う。
数十年前の学説がそのまま今でもまかり通るというのは、学問が停滞してまったく進歩していないことを意味し、むしろ大変恥ずかしいことである。時代と共に学問が進歩していくのはごく当然のことであり、決して先輩の業績を傷つけることにはならないのである。
95年の「青面金剛展」カタログには多数の青面金剛絵図が載せられており、石仏の研究だけでなく、こうした絵図の研究が合わせて必要と感じた人は多いはずである。

絵図には制作年が入っていないことが多く、絶対年代が特定できないことが研究をむずかしくしていた。
造立年の入った庚申塔に絵図がコピーされていることが証明出来ると絵図の絶対年代を決めることが出来る。
代表的な絵図について絶対年代を推定
する手懸かりを得たことが「青面金剛進化論」の成果の一つである。
これまで石仏を中心とした関東の庚申研究と庚申堂の歴史や絵図を中心とした関西の庚申研究は前提が違いすぎて結びつくことが出来なかった。関西と関東を結びつけた総合的な庚申研究が今後の大きな課題であろう。
今回の一連の研究では、青面金剛の姿を石仏写真や絵画で徹底的に比較することが成果につながった。
一方で一般の石仏研究者にとってこうした画像資料の入手がきわめて困難であることを痛感した。→※
パソコンの普及に伴う新しい媒体(CD-ROMなど)による画像資料頒布の手法を具体的に研究して行きたい。

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