庚申資料
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窪徳忠 「庚申信仰の研究」S36 (1980復刻)より抜粋

−福井県三方郡美浜町麻生−

家単位の庚申待
美浜町は敦賀市の西方約三粁に有り、北陸本線の支線小浜線沿い、三方郡の最東部にあたる。昭和二九年二月、南西郷・北西郷・耳・山東の四ヶ村を併せて新たに町制をしいた関係上、いまだに農村的色髪濃厚に残している町である。東・南・西の三方は山に囲まれ、日本海に臨む北の一面がひらけているのみである。町の総面積の八割までが山林地帯で、平地は一町のほぽ中央を南北に貫流する耳川に沿つて、海に向う三角形の部分だけにすぎず、そこ耕地および部落が点在している。旧耳村の一字であった麻生は、美浜駅がおかれて町の中心部を形成する河原市部落の東南約三粁の地点にあり、南・東の二面を囲む山のゆる屋かな裾に位置する。全部落五二戸(昭和二九年四月一日現在)がすべて農家であるが、一戸当りの平均経営面積が六反弱、反当収穫は五俵平均という有様なので、兼業農家が21戸におよぶ。大冨農はなく、大体中農程度で、古くから富裕とはいえない部落でおる。

珍しいことに、ここでは家単位で庚申待を行うのみで、庚申講がない。さりとて、古くから宗教的な講が皆無だつたわけではなく、三、四〇年前までは・伊勢・行者・秋葉・山の神・愛宕・八窪どの諸講があつた。けれどもそれらの講の費用一切が頭屋持で有り、かつ月に二、三回は何かの講があるために、経済的負担と時間の浪費にたえかねて・念仏講とオナゴ神明講のみを残して、他の講を一切廃止してしまつたという。
なおこれらの諸講は、朝食前に頭星に集合し、それぞれの軸の前に神酒、饒米を供えて朝食をともにしたのち、神酒、饅米を分配して平常通り仕事にかかつた由である。

講の行事は夜聞行うのを通例とするから、その点でも、他の地方と相違しているわけである。それはとにかく、かく多数の講があり、寺の境内には、無銘ながら、庚申塔も造立されている上に、「話は庚申の晩」という言葉まで伝承されているから、あるいは以前には庚申講があつたのではないかとも考えられる。けれども、現存の伝承や習俗からは、それらしい形跡は一切認められず、老人たちの言によれば、八〇年前にはすでに家単位であつたというから、おそらく庚申講はなかつたのではないかと推定される。

全国的にみて、かかる類例はきわめて少い。今日までに私がしりえた範囲では、麻生の南方約二粁にある安江部落の他には、福井の4・7、岡山の2・14、広島の10、鳥取の1・4・5・11・13・14、徳島の1、愛媛の4・5・7・8・12・25などがあげられるのみである。

徹夜と就寝時の呪言

古くこの地方で、庚申の晩には徹夜が原則であつたことは、軸を翌朝までかけた儘にしておくことの他に、燈明や線香を一晩中たやしてはいげないという伝えによつて、明らかである。「お庚申さんは遅くまで起きているのを喜ぶから、徹夜をする」とのべた老人もあつた。けれども、明治10年代にはすでに、早げれぱ10時ごろ、遅くとも12時ころには燈明や線香をけして、就床するようになつていた。このように徹夜せずにねる場合には、つぎのような呪言めいた誦言をねる前に床の中で三度誦えなければならないとされている。その呪言は
ショケラよ、ショケラ、ねたかと思つてみにきたか、ねたれどねぬぞ、まだ目はねぬぞ
あるいは
ショケラよ、ショケラ、身体はねたれど、目はねぬぞ。
など、家によつて多少の相違がある。この呪言を誦える理由については、つぎの二説がある。

一説では、「ショケラ」は庚申さんの弟子で、この晩に人々がねるか否かを監視しているので、夜明しをするのがもつともよいが、この呪言を誦えれば、ねてもねないと同様の効果があるといい、
他説では、「ショケラ」は人間を罹病させることを始めとし、さまざまな悪いことをするものでおる。そこで庚申さんが、それがあばれださないように、頭髪をっかんでおさえているのである。そうして、この呪言を調えれば、徹夜せずに早く就寝しても、風邪をひいたり、羅病Lたりしない、というのである。

第二の説から推測されるように、「シヨケラ」とは、前述の青面金剛が左の中手で頭髪をつかんで下げている半裸女人像の姿で現わされたものである。かかる姿で現わした理由、およびこれを「シヨケラ」とよびはじめた年代と理由と明らかでないが、実はこの呪言とそれまつわる伝承とは、日華の庚申信仰の関係を考える上において、後述のようたきわめて重要な意義と価値をもつているのでおる。

庚申さんの持ち物についてはさほど問題がないので省き、前述の「ショケラ」すなわち庚申さんが下げている半裸女人像についての伝承を記しておく。この女人像をショケラと呼ぶのは、福井の2−4の他には三重の1のみである。
以下各地に伝わるショケラの伝承が列記されているが、福井以外はすべて荒唐無稽の説である。
大畠注
女人をショケラと呼ぶのは「全国で福井の3例しかない」と軽視されることがあるが、証拠は数ではなく質である
福井では
@家単位の庚申待なので親から子に正確に伝わった。
Aショケラの名前だけでなく、
ショケラが様々な悪いことをするので、庚申の神様が髪をつかんで封じ込めている」という的を得た伝承を伴っている。
B関西に近い地域
などから、証拠能力は高い。
関西の初期青面金剛信仰におけるショケラの呼称と意味が正確に伝わり保存されたものであろう。



庚申待祭祀縁起  奈良県大和郡山市小泉金輪院

庚申待縁起
抑本朝一国一宇庚申天降らせ玉ふ青面金剛の尊影を供養し奉る事は、人皇四十二代文武天皇の御宇、庚申待の儀式を勤、青面金剛の法を行はせ玉ひて、閨月に庚申塚をつき、庚申塔をたて、年に六度の庚申待供養有し事、悉く本朝の国史に載玉ふ所尤大切也。所謂御祈願一天泰平、玉躰安穏、五穀成就、万民豊楽を願はせしめんがため、庶民に是を教へて、庚申待を勤めさせ、末代の今に至り、上天子より下民家の末々まで、年に六度の庚申待供養申事を、世に伝へ玉ふ。聖君の教へ、御いつくしみ、右かたく伏て仰くべし。是庚申待の其謂れ深きものなる故ぞ。今且く庚申待、庚申の霊験を略演明さは、夫人間の身としては、生れし其日より、病脳苦悩種々の災患を起せる霊鬼神身に付添て、身心を苦しめなやます事、人力を以て是をさくることあたわず。

庚申の日を以て、庚申待を勤め、供養礼敬せぱ、其日を主り玉ふ大自力青面金剛薬叉明王は、大悲の一門に普門の妙徳を開顕し、慈眼を以て衆生を見そなはしめ・大忿怒の形を現し、諸天善神無数億の眷属を具して、共に天降ましまして、人問の身を煩はす魂霊鬼神のたぐいをことごとくほろぽしたいらげ、徴細に降伏せしめ玉ふ、此尊の大悲願力にして誓の深く広き事を世間の小智にして、誰か是をしることを得んや、若此尊を供よふし奉らぱ、親り世に如意円満の妙珠を与へ、福徳智恵を施して、衆生の胸臆を照し、歓喜心を生せしめ、丹心堅固ならしめ玉ふ大青面金剛の霊験也。こゝを以て、青面金剛の霊験感応たやすく演明すに恐れあれとも、青面金剛深秘の宝蔵を開きて、自他無二、平等利益、徴妙不可思議の徳を得せしめん事を略しおはんぬ。
予時文政十三年寅天二月日
     庚申堂現住沙門密源識

庚申待利益之概説
夫当院ハ青面金剛之霊刹タルハ、普ク人ノ知ル所ニシテ、是ヲ世ニ庚申ト称シ、此尊ヲ信仰スル輩ハ、其縁日毎ニ庚申待ト唱へ、其法則ノ如ク彼ノ夜ヲ守ルナり。其事ハ、古来当院蔵奔ノ書ニ詳細ニシルセリ。抑彼夜ヲ守ル者ハ、過去ノ悪業ヲ消滅シ、現在ハ息災延命・家内安全、富貴自在、如意満足、諸願成就シ、未来ハ極楽浄土ニ往生スルコト無疑。只其信仰スル人已ニ限ラズ、子々孫々・又親属ニモ及ブト云フ。

且諸難ヲ除キ、殊二三病ヲ遁ル。三病トハ、胴顕狂ノ三ツ也。況ソヤ其ノ他ノ疾病.一於テヲヤ。又此夜ハ物ヲ惜ムコトナカレ。此夜施ス所ノ物ハ、必七日倍ヲ得ルナリ。其霊験ノイト殊勝ナルコト、実.一尊トムペク崇ムペシト蘭云フ。

庚申待祭祀縁起.
(庚申の作法)−−中略

此教示テ疑ハズ守ル輩ハ、二世ノ諸願満足ス。若シ疑フ輩アラバ、阿^・無間・大焦熱ノ地獄二堕テ、万劫ヲ経テそ成仏得脱ノ果ヲ得ルコトナシ。庚申待ヲスル人、信心シテ他念ナク待パ、必三年ノ内;諸願成就スルコト疑ナシ。縁起如此也。

庚申口决  (三尸の害)
抑人間生ルル時三鬼有テ、人ト倶ニ誕生ス。ソノ名ヲ三戸ト号ク。胎内ニ九億ノ虫アリ。各毛穴ニ住ム。中ニ九ツノ悪有リ。

一ノ上戸ハ、名聞利養ヲ先ニシ、人ノ宝ヲ欲ル。一ノ中戸ハ、五味ヲ嗜ミ、旨酒美食ニ飽コトヲ好ム。餓ル時ハ腹ヲ立テ肝ヲ煎、.酒ヲ以テ無益ノ事ヲ起シ、主ノ命ヲ失ナフ。
一ノ下戸ハ、色ヲ好ム。男ハ日夜女人ヲ好テ恥ズ、女ハ男ヲ持ツ上昌夫ヲ持ツヲ嗜ミ、妖欲ヲ宗トシ、時アラズシテ犯心ヲ起シ、開閉ヲ立テ・心ヲ制シ難ク、恥ヲ知ラズ、人目ヲ顧ミズ、親主兄弟、叔甥ニ嫁セント欲シ、男ハ伯母姪姉妹ヲ犯セント欲ス。此皆下戸ノ崇リ也。終ニ男女ノ道ヲ以テ命ヲ失フ。如此人ハ後世三悪道ニ堕在シテ成仏ヲ為コト無シト云。如是趣ハ、此三戸ノ鬼共ニ悦ビト為ス。コレニ依テ、男女共ニ神仏ヲ信ゼズ、潔斎ヲ成ズ。神罰冥罰ヲ蒙リ、総ジテ諸願成就スルコトナシ。女人ハ俄ニ男ヲ妬ミ、男ハ早ク女ヲ嫌。皆此虫ノ所作ナリ。

九億ノ虫ノ中ニ九ツノ悪虫有ツテ、人身ヲ大ニ害ス。人ノ惜ム物ヲ欲シ、人ノ宜ク成ルヲ妬ミ、人ノ悪ク成ルヲ悦ヒ、人ノ闘ヲ好ミ、故無シテ人ヲ殺シ、我命ヲ失フ事、此虫ノ所作ナリ。乃チ身ニ無栄花ヲ好ミ、味ヲ求メ、無物ヲ願ヒ、財宝世二勝レテ貯ヘソト思ヒ、餓鬼ノ欲ヲ先ニシ、諸ノ悪事ヲ成シ、子孫ニ及ンデ大事ヲ闘キ、親子ノ中ヲ違ヒ、審属ヲ失フモ、此虫ノ所作ナリ。

同庚申ノ日専ラ障碍ヲ為ソト欲ス。此日三鬼忿ツテ人ノ善悪ヲパ梵天帝釈ニ告グ。此虫人ノ果報ヲ奪ヒ、命ヲ失ヒ、将ニ地獄ニ堕ントス。

一ノ上戸ハ頭ニ住ムナリ。捗瑞ト云。黒色ノ虫ナリ。形ハ人ノ如クニシテ、長サ三寸ナリ。庚申ノ日鬼ト成リテ人ノ命尾ヲ送リ出シテ、将ニ短成ントス。或ハ人ノ物ヲ欲シ、物ヲ妬ミ、常ニ物忘レ令メ、俄ニ心細ク成リ、繁怒ル夢ヲ見セ令メ、亡人ヲ夢見セシメ、喧嘩闘静ヲ起シ、時ナラズ腹ヲ立、老ズシテ歯落、眼闇ク、白髪ト成ルハ、此虫ノ所作ナリ。
一ノ中戸ハ腹ニ居ル虫也。影質ト云。青色ノ虫ナリ。形ハ人ノ如クニシテ、庚申ノ日馬ノ形ト成テ人ノ気ヲ弱クス。物忘レヲ成シ、悪事ヲ好ミ、殺生ヲ好ミ、思ノ外ニ寵栄ニ遇ヒ、命ヲ失ハシメ、高キ人ヲ賤シメ、我ニ善キ人ヲ疎セ令メ、親シミヲ軽ンジ、子ヲ矜レマズ、魚鳥麹蒜茸ヲ好ミ、腹ノ毒ト成ス、此時三力ヲ得テ人ヲ殺ント欲ス。今夜悪キ夢ヲ見レバ物狂ト成ル。又口ヨリ白キ血ヲ出シ、早ク気力ヲ損ス。
一の下戸ハ髪ト云フ。形白鶏ノ如シ。足ニ居ル虫也。庚申ノ日鬼ト成ツテ障碍ヲ人ニ成ス。

大学匠善知識モ此鬼ノ崇ハ遁レズ。年二六度ノ庚申ノ日ヲ知ラズシテハ、二世ノ大願成就シ難シ。
六十日目一二度、一日一夜眠ラザレバ、寿ハ百二十年ノ齢ヲ保ツテ、子孫繁昌ニシテ富貴自在ナリ。児童モ是ヲ信ゼザレバ名竈ノ号ヲ得ガタシ。出家モ是ヲ信ゼパ、則仏法繁昌ニシテ何事モ成就スト云々。此事ヲ信ゼザル人ハ、疫病繁ク悩ミ、赤痢ヲ煩ラフ。是ニ限ラズ、諸ノ煩ヒ疑ヒナシ。庚申ノ夜善ヲ成シ悪ヲ止テ、持戒持律シテ経ヲ読ミ、彼本尊ノ所作ヲ成シ、別テ真一言ヲ唱へ諸僧ニ供養シ、香花弁ニ百味ノ飲食ヲ備へ、仏ヲ念ジテ眠ラザルナリ。凡ソ六度ノ庚申ノ夜、九虫出去テ思事成就ス。譬パ有人善根逆修スト雖ドモ、六度庚申申ノ日ヲ信ゼザレパ則功徳少シト云々。又悪人ハ今夜ヲ知ラズ、男女ノ嫁ヲ成ス、必頑成子生、必盗人ト成テ、終ニハ愉罪ニ死シテ父子トモ貧人トナル。又七月十六日ニ手足ノ爪ヲ切レパ、三戸他方ニ出去テ障碍ヲ成ズト、具サニ庚申経ニ見エタリ。右ノ法ハ深秘ノ法也。能々修スペシ。不信ノ人ニ於テハ伝授スヘカラズ云々
    慶長二年丁酉九月廿四日

大畠注
普通の庚申縁起には「青面金剛を信仰すると三尸の害から逃れられる」とだけしか書いてないが、金輪院の庚申縁起には「青面金剛が三尸を退治してくれる」と明記しその情景を生き生きと描写している。
ショケラが金輪院で最初に作られたのであれば、当然「三尸征伐」の場面をイメージ化したものと思われる。

三尸は「虫」というものの実は「鬼=霊魂鬼神」であることが各所に説明されている。

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二童子衣装の変化
二童子は「走り使いの少年」。古い時代には細いズボンをはき活動的だが、江戸時代になるとゆったりした
衣装に変わりスタイルが固定する。青面金剛図の時代判定の参考になる。

 

   
   
   
   
   
   


「日本の石仏」2001冬号 小花波氏「庚申塔」記事

・・この半裸女人像をショケラと呼ぶ人があるが、それは間違いで、これはショケラではない。青面金剛の絵をなるべく多くの掛け軸で調査し、その変遷を眺めてみれば納得できるでしょう。・・

「ショケラと呼ぶのは間違い」というのは数十年前からの小花波氏の持論であり、庚申研究者の間では定説のようになっている。
筆者ショケラ論の一部は、小花波説に対する挑戦の形になっているので説明しておく。

    シヤ虫や去ねや去りねや我が床に・・・(平安時代の袋草子)
    シヤケラや去ねや去りねや我が床に・・・(庚申縁起)

窪徳忠氏「庚申の研究」のショケラ論
A)上記の歌から、シヤ虫もショケラも三尸虫を指すことは明らかである。
B)女人像は俗にショケラと呼ばれている。
C)窪氏の全国調査で、女人像をショケラと呼ぶ地域が福井などに3例あり、「ショケラが悪いことをするので庚申の神様が髪をつかんで押さえ込んでいる」という伝承が付随していた。
以上から、女人像は三尸虫退治を意味すると思われる。ただしショケラの起源やショケラの名称の意味は不明である。

この説は分かりやすいため、ショケラの名称が普及し研究者は「ショケラ」を使うようになった。

飯田道夫:庚申信仰(1989)p87
「この女人を俗にショケラと呼んでいる。・・・この女人を三尸に見立てると、是は青面金剛が三尸を退治している図で、確かにこの仏は三尸調伏の修法に祀るにふさわしく思われる。」
日本石仏図典(1986)日本石仏協会 p101  「庚申塔ー夜叉ー持ち物・・・ショケラ」
1995春号「日本の石仏」p58 「ショケラの出現・・ 半裸女人のショケラ・・」

小花波氏は、「女人像が俗にショケラと呼ばれる」証拠がない。少なくとも関東地方には事例がない。ショケラが三尸虫を指すことは明らかだが、ショケラと女人像は別、したがって女人像は三尸虫とは無関係と主張した。
窪氏は「女人像=ショケラと思いこんでいた」ようで「女人像が俗にショケラと呼ばれる」ことが証明できなかった。

小花波氏は、「女人像をショケラと呼ぶのは窪氏から始まった間違い」ということを折に触れてPRし、教育委員会などではショケラを使わないことがかなり徹底している。

小花波氏が否定しているのは、B)の「俗にショケラと呼ばれる」の部分だけである。
C)の窪氏の全国調査では、女人像をショケラと呼ぶ地域が3例確かに出ている。

小花波氏の記事のように「ショケラと呼ぶのは間違い」と表現してしまうと、窪氏の全国調査3例を理由なしに抹殺していることになる。窪氏の名前を出すことを遠慮したためと思うが、誤解を招く表現である。
要は「女人像が俗にショケラと呼ばれる」を前提にして推論してはいけないというだけである。

大畠は次の順で推論しており、「女人像が俗にショケラと呼ばれる」を前提にしていない。
@ショケラは三尸虫のことである。(しゃく→しゃけらの誤読から始まる。)
A金輪院の庚申縁起では「青面金剛による三尸退治」が強調されている。
Bショケラは仏典の「商羯羅/商羯羅妃」に通じるので、「三尸退治」を「商羯羅天退治」で表現した。半裸女人は当然ショケラと呼ばれていたはずである。

初期の時代にショケラの名称と意味が福井に伝わり、家単位の庚申講で正確に伝承された。
その後ショケラの名前が普及しなかったのは、@の「ショケラ=三尸虫」がうまく説明できなかったためである。
「く→けら」の誤読から始まったのだから説明できないのが当然である。

小花波氏の記事の後半「掛け軸・・」はまったく意味不明である。

多分「掛け軸などの絵も含めて検討したが、これまでの持論を変える必要があるようなことは何も発見できなかった」という意味であろう。「青面金剛展カタログ」を頭においていると思うが、このカタログにはショケラ名称の是非を論じるような材料は何もない。

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