G論 広重図のモデル  原資料の直接参照                          目次へ
この項は、時間をかけてゆっくり説明する必要があり、初心者が混乱する恐れがあるので取扱い注意。
 
ただし広重図の「二川」と「石部」の山を説明するためには、どうしても必要である。

広重が江漢画帖だけを見て東海道五十三次を描いたのであれば話は簡単だが、それだけでは説明できない絵が何枚かある。

広重は江漢画帖の元になった、写真鏡スケッチ/取材メモや名所図会/続膝栗毛口絵などのモデル一式を入手し、その全部を参考にして東海道五十三次を作成した。(原資料の直接参照

以下、その結論に至る経過と証明である。
(1)東海道名所図会
初期のインターネットに、「広重図が江漢図のモデルであることが100%証明出来た」という記事が出ていた。
今となっては間違いであるが、話の順序として紹介しておく。

江漢「草津」の茶屋は無人である。しかし広重「草津」の茶屋には、東海道名所図会「草津」の茶屋の人物が、そっくり写されている。無人の江漢図をモデルにして、広重図の人物が描ける訳がないから、「広重図→江漢図」であることがこれで証明された。(「大津」茶屋の人物も同様)
(A)東海道名所図会→江漢図→広重図  (B)東海道名所図会→広重図→江漢図 のどちらかであるが、(A)ではないから(B)。

  
東海道名所図会                 広重「草津」                江漢「草津」    
この説は単純な間違いである。
東海道名所図会は東海道の百科事典であり、東海道を描く絵師なら誰でも手元に持っていた。広重は「江漢図の一部が東海道名所図会のコピー」であることを見抜き、江漢図と東海道名所図会の両方を参照して描いた。
すなわち広重の手元に「(江漢図だけでなく)東海道名所図会もあった」ことを証明しているだけである。

すなわち、上記(A)(B)のほかに、次の (C)の「両方参照」のケースがあることを忘れた議論である。
            
●広重図には東海道名所図会だけをモデルにした(江漢図とは絵柄が違う)例が数枚ある(京都、江尻・・・)。
広重の手元に東海道名所図会があったことは明らかである。
 
(2)続膝栗毛の人物
鈴木重三「保永堂版広重東海道五十三次」(2004岩波)により、十返舎一九 「続膝栗毛」口絵「道中ゆきかい振り」(1813刊行)の人物が広重図にモデルとしてコピーされていることが報告された。
この人物は江漢図(1813後半)にもモデルとして使われているから、東海道名所図会と同様に、続膝栗毛口絵→江漢図→広重図とコピーされたものである。

東海道名所図会と同じ様に、「広重図に続膝栗毛口絵が直接参照された」証拠があるかどうか検討した。

広重「川崎」: 江漢図にはない人物(↑)が広重図に写されている。広重は続膝栗毛口絵を直接参照していることが分かる。


広重「藤沢」: 橋の上の女性は、江漢図には居ない。膝栗毛の直接参照である。


広重「掛川」: 橋の上の老女。腰の曲がり方の角度から広重図は続膝栗毛を直接参照している。
         

東海道名所図会と膝栗毛口絵の大きな違い
続膝栗毛口絵は、読者サービスのための付録として初刊(1813)に一度添付されただけの図であり、東海道名所図会と違って、20年後(1833)の広重が常に手元に所有していた可能性は考えられない。

広重が、江漢図の人物を見ただけで、続膝栗毛口絵がモデルであることを一目で見破るのは無理だし、20年前に一度出ただけの口絵を探して入手することはさらに無理である。

唯一考えられるのは、江漢図と一緒にモデルの膝栗毛口絵も保存され、一括して広重の手に渡って利用されたということである。
(3)江漢の写真鏡スケッチ及び取材ノート
広重図のほとんどが江漢図のコピーであるが、二三の例外がある。
二川」「石部」・・について、江漢図/広重図とも山の形が正確であるが、対象の山や山のアングルが違っている。「広重、東海道を旅せず」から考えて、広重本人が現地写生した可能性はない。
   

考えられることは、江漢図と一緒に江漢の「写真鏡原スケッチ」が保存されており、その中には江漢画帖で使われなかった写真鏡スケッチが含まれていて、それを広重が活用したということである。
(4)江漢の失敗作
インターネットで、画帖とは別の江漢「庄野」図が紹介されている。「以前に江漢画帖と一緒に画商から見せてもらい、バラの一枚だけを購入した」というコメント付きである。

江漢の印はあるが、江漢の署名がないところから、江漢が気に入らずに描き直した失敗作であろう。失敗作も捨てずに画帖と一緒に保存されていたことになり、「原スケッチや取材メモが江漢図と一緒に保存されていた」という推定の根拠の一つになる。
★広重「庄野」は、江漢画帖「庄野」のコピーであるが、上記の「庄野」失敗作の遠景の竹林の描写が広重図に転用されていることが分かった。(インターネット画像からの判定)
広重は江漢画帖「庄野」と失敗作「庄野」の両方を参照していることになる。

(5)二川の「かしわ餅」看板と小松
広重「二川」には「かしわ餅」の看板があるが、江漢「二川」の看板にはこの文字がない。江漢図を見ただけでは「かしわ餅」屋であることが分からないはずなので、広重は江漢図とは別に江漢の「取材メモ」も入手/参照していたと推定した。
「かしわ餅」は猿ヶ馬場の名物であり、何故「二川」の風景として合成されたのか以前から謎とされていた。
広重「二川」の山は、二川駅付近で、新幹線や従来線からもよく見える長尾根である。
現地写真と較べると、空の部分にまで小松が描かれているのが不思議である。「広重は山の形を正確に知っていたが、現地の地形を知らなかった」ためと推定した。

江漢「二川」を比較すると、それがはっきりする。江漢「二川」の場所は、二川(三河)より手前の「猿ヶ馬場」(遠江)の風景であることがカシミール3Dで分かる。
猿ヶ馬場は、県境の山越え風景で,高い場所から周囲を見下ろす地形である。
二川は、新幹線/東海道従来線/旧東海道が平行して走っている平地で、山を見上げるような地形である。
広重は地形の違う二つの風景を合成したため、空の部分にまで小松を描いてしまったのである。

★江漢は、五十三次にこだわらず、東海道風景を描いている。
一方広重は出来るだけ、五十三次の宿場に合わせようとして、江漢の猿ヶ馬場風景と江漢写真鏡スケッチの二川の山を合成した。
広重が小松を描き込んだのは、東海道名所図会の説明文「この付近、小松多し」によるものであろう。

G論の結論 広重は江漢図だけでなく、江漢図の元になった原資料を一括入手して参照していることが証明された。
 

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