ニセモノ説への批判                          議論小目次へ   総目次へ  
   
江漢ニセモノ説の基本的な弱点
●「江漢にしては下手すぎる」「上手すぎる」など直感だけの議論が多い。
  結局「従来の江漢作品と似ていない」と言うのがすべてのようである。

●50枚ものニセモノを作れば、どこかで時代考証などのミスを犯す。(一つの嘘は簡単だが、複数の嘘をつき通すのは難しい。)
  しかも@江漢のニセモノであると同時に A広重モデルのニセモノであるから、1枚毎に二重のウソを付いていることになる。
  しかし研究者が鵜の目鷹の目で10年探したのに、「ニセモノの証拠」になる「愚かミス」は一つも見つかっていない。(3)を参照

●ニセモノ説の最大の弱点は、ニセモノ犯人の目的や動機が説明できないことである。(金儲けにしても 愉快犯のいたづらにしても)。
例えば福富太郎氏(コレクター)の初期の推定 
●明治二十年頃の混乱期に司馬江漢がどのような絵を描いていたのかよく分からないことを利用して、広重の五十三次から模写し、江漢として売ってしまおうとした絵師が描いた説。
●最初広重の五十三次の銅版画風、一種近代的な絵を描いて広重作として売ろうとしたが買い手が付かず、ならば江漢として売ってしまおうというアイディアマンがいたとする説。     
後者の方が可能性が高いと思う。 
       ★後者は「本物とまるで似ていないニセモノ」に対する苦心の説明。

広重/江漢の両作品をよく見較べると江漢図は広重図の丸写しではないことが明白。(各論参照)
上記のような単純な「ニセモノで金儲け」説は成り立たない。

(1)現地再訪問説の矛盾
「江漢図の方が現地風景に忠実」という多数の証拠に対して、「ニセ江漢が広重図を手にして現地を再訪問し、(現地に合わせて)修正した」という反論が一応可能だが、ニセ江漢の行動としては支離滅裂である。
1)藤沢
ニセ江漢は広重図を持って藤沢遊行寺を訪問。現地に広重図にない山門があったので、それを描き込んだ。
すなわち実景に合わせて正しく修正した。
(描き込むためには江漢時代/広重時代に山門があったのかどうか時代考証が必要。広重図の通りに描いておくのが、ニセモノ作者にとって無難であるはず。)
覆面の武士
南蛮風衣装(ひだ襟)の武士
2)日本橋

ニセ江漢は、広重図の「覆面の武士」を、「南蛮服の武士」に修正した。南蛮服(正確には南蛮風の襞襟)は200−300年前の風俗(信長−秀吉時代)で江漢や広重時代にはあり得ない。

すなわちわざわざ実際にはありえないウソに修正した。
3)吉原1

広重の冨士は、子供でも描けるギザギザ頭の一般的な冨士。
ニセ江漢は、吉原の現地で快晴の富士山を正確に写生。(頭が丸い。)
右上がりの地形も現地通りに修正。

すなわち正しく修正した。
4)吉原2

左冨士の見える現地は水田に盛り土した縄手道で広重図通りだった。ところがニセ江漢はわざわざ実景とは違う松林の中の道(ウソ)に修正した。

一枚の絵の中で、一部は正しい方向に修正、一部はウソの方向に修正していることになり、矛盾だらけの行動。
5)平塚

広重図は平塚宿のどこからでも見える高麗山を描く。
一風変わった山高帽子風の山で、誰にも平塚であることが分かる。

ニセ江漢は、わざわざその場所を通り過ぎて、馬の背状に形の変わった平凡な形の高麗山を描く。

何故別なアングルに変えたのか、説明できない。
1)以上から、「江漢図の方が現地風景に忠実」という証拠に対して、「ニセ江漢が広重図を手にして現地を再訪問し、(現地に合わせて)修正した」という説明は、ニセ江漢の行動が支離滅裂で成り立たない。
2)ニセ江漢が何故現地に忠実にに描き直さなければならないのか、目的が説明できない。
ニセモノ作りであれば、広重図通りに描いておくのが無難であり、なまじ修正すると疑惑のタネを作るだけである。
3)広重図だけを見ても、写生場所が絶対に推定できない事例が多数ある。(江漢図が出現して始めて写生場所が分かった。)
小田原、箱根、江尻、蒲原、二川・・・   この場合、ニセ江漢は現地に到達出来ないはずなのに、江漢図は現地に忠実である。
(2)ニセモノ作りの動機や目的が分からない

1)ニセモノ作者の動機が不明
ニセモノはホンモノに似せて描くのが常識。一体「ホンモノと画風がまるで違うニセモノ」がありうるのか。

2)シリーズもののニセモノ作りは割に合わない。一つのウソは簡単だが、複数のウソをつき通すのはむつかしい。
時代考証などの「愚かミス」で、1枚でもしっぽを出すと50枚作った努力がすべて失われる。同じ手間を掛けるなら、単品を50枚作った方がはるかに有利で、リスクが少ない。

3)もしこのシリーズがニセモノとすると、@江漢のホンモノというウソの他に A広重のモデルという二重のウソをついていることになり、贋作史上例のない複雑な構成の贋作で、きわめて困難な課題に挑戦したニセモノ作りである。(実際には東海道の風景そっくりという三重のウソが必要)。 あらためてニセモノ作りの動機は何であろうか。
(50×2のウソをつきながら、ニセモノであることを示す絶対的な証拠(例えば時代考証上のうっかりミス)がまだ1件も見つかっていないことも不思議である。もしニセモノなら超人的な用意周到なニセモノ作りである。)

4)江漢図の一部は、広重の初刻ではなく、再刻版によく似ている。上記のように「広重のモデル」と言うウソをつき通すためには、再刻版ではなく、初刻版に似せなければ意味がないはずである。
(再刻版の存在を知らず、たまたま手元にあったのが再刻版だったのでうっかりそれをコピーした。というのはあまりにもおそまつで、用意周到なニセモノ作者のイメージと合わない。)

5)江漢図は広重図の単純なコピー(ほんの思い付きで広重図をコピーした。)というのが、ニセモノ説の前提であろう。
ところが1枚1枚を詳細に検討していくと、江漢図は広重図の単純なコピーではなく、@現地風景の忠実な写生 A正確な時代考証に基づいていることが分かってきた。逆にB実際にはあり得ないフィクションが故意に描き込まれているものもある。(各論参照)
一枚一枚の詳細検討が進むにつれてニセモノ説の前提が崩れている。
(3)江漢ニセモノの直接証拠はない。画題、画法、画材
次の項目は、かって江漢ニセモノの絶対的な証拠とされたことがあったが、すべて間違いであることが分かっている。
現在のところ、江漢のニセモノを示す直接の証拠は示されてない。したがって「画風が違う」というのが江漢ニセモノ説の唯一の根拠である。
  1)画題: 「関」本陣の「仙女香」は江漢の時代にはまだ発売されていなかったはず。
  2)画法: 江漢図に多用されている「丸い点描」は、江漢より後の時代の技法。
  3)画材: クロムイエローを使った絵の具の発売は江漢の死去以降。
関の「仙女香」
江漢図「仙女香は江漢の時代にはなかったから、江漢画集はニセモノ」とする意見をあちこちで見かけるが、初歩的な間違いである。

仙女香は三代目瀬川菊之丞(1751-1810)(俳名「仙女」)の人気と連動して売り上げを伸ばした商品であることは、江戸学事典、化粧品の歴史、歌舞伎事典などの基本資料から明白。

仙女香は、江漢(−1818)と同時代の化粧品である。


広重図には、発売元の名前と住所が書き込まれており、「広告であることに気がつかずに、うっかり」江漢図に描き込むはずがない。
また両図とも「〜守」←→「〜守宿」に描き直す、門の幕の色を変える・・・など本陣作法の考証に細心の注意を払って描いている。
何気なく描き写したものではない。
丸くない点描 「鴛鴦図」 沈南蘋
 
丸い点描 「鳳仙花と犬図」 1771 諸葛監
江漢図「沼津」より、丸い点描
「江漢図に使われている丸い点描(筆を立てて点を描く)は江漢よりもっと後の時代の技法」と言われたことがあるが、間違いである。
上の図から、江漢の時代に丸い点描が使われていたこと、むしろ流行していたことが分かる。
若き日の江漢も丸い点描(点苔)を使っており、筆使いは20年も前からマスターしていた。
     
ニセモノ説 ニセモノ説への反論  
クロムイエローを使った絵の具が発売されたのは1819年で、江漢没年1818よりあと。 顔料と絵の具を混同した議論。江漢は顔料から自分で絵の具を配合しているので絵の具の発売時期とは無関係。 クロムイエローの合成に成功したのは1801年。それ以前から天然品も使われていた。

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