13沼津 3.広重図の矛盾(解説)       3   まとめ  資料    目次へ
●広重図の前方に見える立派な橋は黄瀬川橋と言われる。写生場所はA付近と言うことになるが、左図のように、A付近の狩野川は、東海道から遠く離れているので、広重図の川が宙に浮いてしまう。

●狩野川本流ではなく、支流の黄瀬川の風景という現地調査報告がある。
この場面は、東海道ではなく、黄瀬川橋で東海道と分かれる足柄道B地点)ということになる。前方に見える橋は黄瀬川橋ではなくなり、橋が宙に浮いてしまう。

足柄道は、箱根道が開ける以前からの古道で、関本に通じる。
関本には天狗寺で名高い大雄山(道了尊)がある。
三枚橋説 
広重の写生場所はC点で、前方の橋は三枚橋という説がある。
橋の位置の辻褄だけは合うが、三枚橋は橋と言うより町の名前であり、町名の元になった三枚橋はドブ板程度の小橋で、広重図のような立派な橋ではない。

今井金吾「古地図・古写真で見る東海道五十三次」2002新人物往来社に「大正時代の三枚橋」という解説の立派な橋の写真が載っているが、この写真は大正時代に作られた狩野川本流にかかる三園橋(大正時代は無名の橋)である。
(江戸時代には狩野川本流にかかる橋はなかった。)  

現在の黄瀬川風景(黄瀬川橋より)
現地風景の調査(黄瀬川風景であることの確認)
★昭和36年に広重研究家の近藤市太郎氏が現地調査し、広重図は狩野川ではなく、支流の黄瀬川沿いの風景であることを確認し、「世界美術全集別巻 広重東海道五十三次」に写真を掲載した。
★昭和37年に版画家徳力富太郎氏が、黄瀬川の風景であることを確認して、「東海道 昔と今」に現地スケッチを残している。

両氏とも迷うところなく黄瀬川に直行しているところを見ると、近藤市太郎氏の発見ではなく、それ以前から黄瀬川説が有力だったらしい。

三枚橋説は、これら先輩たちの現地調査を、頭から無視した辻褄合わせであり、許容できない。別項で関連の資料を示す。資料
 
以上のように、広重の橋(黄瀬川橋?)が様々な矛盾の種となって、研究者を悩ませてきた。
江漢図の出現で矛盾が一挙に解決する。
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