沼津 資料: 広重の橋を巡る議論のまとめ            まとめ      目次へ
1.大正の写真集
 
大正の写真集には「広重の写生場所」とある。この橋は狩野川本流に掛かる橋だが、江戸時代狩野川本流には橋がなかった
明治になって、本流にも橋が造られたらしく、明治20年地形図(上右図)には本流にかかる橋が2−3本描かれている。
上図の写真はこの橋の一つで、現在の三園橋の前身になる橋である。
三園橋について
←インターネット記事


三園橋は、昭和3年に建設され、三園橋と命名されたとある。

しかし地形図や写真から分かるように、明治以降、この位置にすでに橋があったことは確かである。

昭和3年に車が通れる立派な橋に改築されて「三園橋」と命名されたのであろう。
2.黄瀬川橋説
現地調査した研究者が相次いで広重「沼津」は、狩野川ではなく、支流の黄瀬川付近の風景であることを認めた。
  
 S36 近藤市太郎「世界名画全集別巻」        S37徳力富太郎「東海道昔と今」     両図とも、この方角の風景と思われる。黄瀬川橋より下流方向
S36 近藤市太郎「世界名画全集別巻」 編集者とカメラマンを同行して実地調査
月報沼津はもっとも劇的な構成を持つ作品なので、この広重の夢を追ってその場所を探し求め、黄瀬川の畔を右往左往した。
本文この川筋が狩野川のように言い伝えられているが、私は狩野川に合する黄瀬川であろうと推定する。広重と同じ場所を探すことは、前に述べたように愚かなことであるが、100年を経た今日でも何か共通の雰囲気を黄瀬川河畔に見出すことが出来る。黄瀬川橋は図の遠方に見えるが、「土橋なり、橋詰めより足柄山に道あり」と名所記にあり、恐らくこの川筋をえがいたものと推定したい。
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S37 徳力富太郎「東海道昔と今」 現地調査
今、沼津に立ってみると、広重の画材となった黄瀬川のあたりは、広重の作品と非常によく似ている・・・
 
3.児玉幸多監修「東海道五十三次」広重から現在まで
大正の写真集と現在風景を対比しているが、「大正の写真集の撮影地点の現在」の写真集であり、「広重の写生場所の現在」ではない。
すなわち大正の写真集の場所が正しいという前提で編集されたもので、広重の写生場所の再調査ではない。
  
ところが沼津だけは(「大正写真の撮影場所」という写真説明にも関わらず)大正の写真とは違う場所の「黄瀬川」の写真(下左)が掲載され
ている。説明文(上右)も「・・・沼津の宿に近づいた黄瀬川沿いの道・・・」となっている。
 
  この写真は、黄瀬川橋の下流から撮った黄瀬川橋。    地形図も大正の写真に付けられた物より広範囲の地図で、黄瀬川橋印が付いている。
注)この写真集では、沼津について広重の写生場所が大きく修正されているが、広重図の説明としてはなお中途半端である。
東海道は前方の黄瀬川橋を左右に通っている。したがって旅人の通る川沿いの道は東海道ではなく、東海道と直角に交わる足柄道である。
広重図の橋は川を渡っていないから、この写真の黄瀬川橋ではない。
以上から、広重「沼津」が狩野川ではなく、黄瀬川沿いの風景であることは、広重研究の大勢としてすでに確定していた。
  
ただし、黄瀬川風景であることを認めても、広重図の「黄瀬川橋の矛盾」は一向に解決していないことに注意。
広重図の橋(上左図)は、本流をまたいでおらず、支流に架かる橋であるが、黄瀬川の更に支流の橋は存在しない。 
(一方の江漢図には橋が描いてないので最初から橋の問題はない。黄瀬川沿いの風景として何の矛盾もない。)
 
4.三枚橋説の否定  「広重図の橋」の矛盾の辻褄あわせ
黄瀬川説では、黄瀬川橋の矛盾がどうしても説明できないため、「三枚橋説」が登場する。

「広重図は黄瀬川ではなく、やはり狩野川」と話を戻し、遠方に見える橋は三枚橋であるとする説である。

  AA.今井金吾編「古地図・小写真で見る東海道五十三次」(2002年新人物往来社) ・・・
左図

  BB.鈴木/大久保ほか「保永堂版広重東海道五十三次」(2004岩波書店)
説明抜きで三枚橋と断定しており、「わらをもつかむ」気持ちでAAを引用したのであろう。

この説は、広重の橋の矛盾を説明するための苦し紛れの説で、次の理由により明らかに間違いである。

「三枚橋説」間違いの理由

(1)「黄瀬川沿いの風景が広重図にそっくり・・・」という先人たちの現地調査を頭から無視した辻褄合わせである。

(2)三枚橋は幅2-3mのドブ板程度の橋で、広重図のような立派な橋(20-30m)ではない。

左図に「大正初期の三枚橋」として掲載されている橋の写真は大間違いで、狩野川本流に掛かる三園橋(50m以上)。「この写真の橋=広重の橋」と思わせようとしているが、だまされてはいけない。江戸時代にはなかった橋であり、かつ三枚橋でもない。二重のミスである。
 
(写真の原本(大正の写真集)には「三枚橋」という説明はない。
以下、三枚橋についての詳細説明

広重が参考にしたと思われる東海道分間絵図(元禄版) 
●「三枚はし」という文字があるが、橋の名ではなく、町の名前である。 「〜〜橋」という地名には、そうした例が多い。
  三枚橋という橋は図に出ていない。地図に出ない程度の小橋であった。
●この地図に狩野川がまったく描かれていない。
  「黄瀬川橋を描き込めば、足柄道が東海道の風景に変わる」と広重が勘違いしたのは、そのためであろう。
三枚橋の名前の由来
沼津の場合、三枚橋の名前の由来は、江戸時代の詳細地図(下左図)から明らかである。
この付近に三本の小川が狩野川本流に流れ込んでおり、小橋が3本並んでいた。三枚橋は連続した3本の小橋の総称だったのである。
 
沼津の橋のまとめ
 
●以上のように、広重図の橋の矛盾は、いくらこじつけても説明できない。
●江漢図には橋が描いてないので、橋の矛盾がないだけでなく、黄瀬川橋の現地風景(2010/7撮影)ともピッタリ一致する。
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