江漢画集の作者論 議論小目次へ 総目次へ |
江漢図が広重東海道五十三次のモデルであることの直接証明は簡単であるが、江漢図の作者が江漢本人であることの証明はなかなか難しい。 各論で論じた中から、江漢画集の作者の人物像や資格を拾い上げていくと、結局江漢本人しか該当者が居ないことになる。 |
西洋画法をマスターしていることのほか: 日本橋−−オランダ出島のインドネシア人に関心。 関−−本陣作法に精通。 大津−−牛車とその歴史(牛飼い少年)に関心。 由井、江尻−−サッタ山へのこだわり。 筆捨て山−−滝とその水源へのこだわり。 |
ここでは江漢本人の持論だった「写実的な冨士」について取り上げて検証しておく。 |
江漢の冨士論 冨士論と写真論 |
江漢の冨士は、現地の冨士(それも快晴の冨士)を正確に写している。 ◎少なくとも広重の冨士をコピーしたものではなく、現地写生である。(議論1の証拠資料) ◎富士山は正確に描くべきというのは江漢の持論である。 江漢の冨士論へ (原文資料) 江漢以外にこういう冨士の描き方をする画家は日本にいない? 江漢真筆の準直接証明。 「江漢と画風が違う」というのが江漢ニセモノ説の唯一の根拠であるが、春波楼筆記の江漢冨士論/写真論と読み較べると、冨士論/写真論を体現した作品と考えてよいと思う。江漢真物を示す準直接資料である。 |
吉原の冨士 目次へ | ||
カシミールの冨士 |
広重の冨士 |
江漢の冨士 |
頭が丸い吉原の冨士。広重の冨士をコピーしても江漢の冨士は描けない。現地で実物を写生しないと描けない。 |
由井の冨士 頂上右側が丸い。吉原と同様、広重図のコピーでは江漢図は描けない。 | ||
カシミール |
広重 |
江漢 |
原の冨士 頂上が平ら。広重図のコピーで江漢図が描けるか? | ||
カシミール |
広重 |
江漢 |
参考: 現地を旅した程度では、快晴の冨士にはなかなか巡り会えない。旅好きの江漢でさえもそうである。 ところが江漢画集では由井−吉原−原とも快晴の冨士が写生されており、江漢書簡の記事と符号する。 江漢西遊日記(1788):5月10日 原、吉原の間、曇って冨士見えず。 (帰路は中山道) 江漢吉野紀行(1812):2月23日 原、吉原の間、曇りて冨士見得ず 文化十年1813 六月十二日 山領主馬あて江漢書簡 去冬(1812)帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。 |
快晴の冨士がなかなか見えない例 大田南畝:改元紀行 (原付近)松長村のほとりより冨士を見るにしばしが程に雲立ちおおいて高根を見ず。 (吉原付近)富士郡江尻村のあたりは、富士山の正面と聞くに、雲霧晴れて鮮やかに見ゆ。 (薩垂峠)あまた度振り返るに、雲深くして冨士を見ず。 清河八郎:西遊草(西より→江戸へ) 蒲原:ここまで曇り天ばかりにて、富士山を見ることかなわざりしに、ここに至りて始めて雲表にそびえあらわれれ,されども雲中なれば黛を散らせし如にて一奇色なりき。 吉原:東南晴れ渡り、冨士の山の方のみかすみて見えず。 |
江漢の富士山(晩年) | ||
江漢 西遊日記挿し絵(1815頃清書 真筆) | ||
江漢真筆 1812京都 | 江漢画集(由井) 1813頃 |