江漢の冨士論、写真論(写真鏡)                     目次へ    冨士論へもどる
江漢「春波楼筆記」  富士山論、風景画論   
1811ほぼ完成  ただし刊行はされていない。

○吾国にて奇妙なるは、富士山なり。これは冷際の中、少しく入りて四時、雪,嶺に絶えずして、夏は雪頂きにのみ残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。

○吾国画家あり。土佐家、狩野家、近来唐画家(南画)あり。この冨士を写すことを知らず。探幽(狩野探幽)冨士の絵多し、少しも冨士に似ず、ただ筆意勢を以てするのみ。また唐画とて、日本の名山勝景を図すること能わず、名もなき山を描きて山水と称す。・・何という景色、何という名山と云うにもあらず、筆にまかせておもしろき様に、山と水を描き足るものなり。これは夢を描きたると同じことなり。是は見る人も描く人も一向理の分からぬと言う者ならずや。

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし。富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く。無名の山水を写す事なし。

山領主馬あて書簡 1811以前
・・ドンケルカーモル(写真鏡) これは絵をお習いの御方なくてはならぬもの故、製し候て上げ申つもりにて候。貴公様へも作り上可申候。
○(文化八年1811)八月二十七日海保青陵あて  (引退直前の江漢の日常。強気である。)
春中お差し出しの御状、ようやく八月にして送達申し候。・・尚々来春には上京可仕候。さて火葬論、皆々にも為見申候・・

小子も近年は西洋天経学にはなはだ通じ申し候て、毎月八日二十日会として講し申し候、京極備前之守侯世子また阿部福山の世子、皆門人にて彼方へ参候論談いたし候。さて人は文字を知り足る人は多く有候えども、理を知る者は少なし。・・・・西洋画、小子創草之事なるに世俗偽作して利之為に市中に売るもの多く候故、毎月画会之催して世人に施く事をいたし申候、・・・

文化十年1813 六月十二日 山領主馬あて
去年春よりして京都に出で、生涯京の土になり可申と存、住居仕候処に、江戸表親族共の中変事起り候て、急に去暮に罷返り候処、今以てさはりと済不申、然し十が九まで相済候て、先々安心は仕候。・・・
小人京よりa和と申す画師を弟子にいたし江戸へ呼びよせ候処、・・真の狂人になり申し候・・それ故吾志をつぐ者なし、この度は医業をいたす者を呼び世を譲り、小子はとんと世外の人なり、目黒の方へ隠居所を作り名を改め無言道人と申候。私跡相続人は上田多膳と申候て、旧の芝神仙に居申候。

一.京にては富士山を見たる者少なし、故に小子富士を多く描き残し候
去冬帰りに富士山よく見候て、誠に一点の雲もなく、全体をよく見候,駿府を出てより終始見え申候、是を写し申候。

一. この度「和蘭奇巧」の書を京都三条通りの小路西に入、吉田新兵衛板元にて出来申し候、
その中へ日本勝景色富士皆蘭法の写真の法にて描き申し候、日本始まりて無き画法なり。
然し今は画も悟りもオランダも細工も究理話も天文も皆あきはて申候ても困入り申し候
江漢は1812京都からの帰路、「和蘭奇巧」の挿絵用として、始めて写真鏡を使って風景を取り込み、持ち帰った。
翌年の隠退により和蘭奇巧の出版は流れたため、1813以後、写真鏡で取り入れた風景を生かして、洋画の五十三次シリーズに仕上げたのがこの画集である。
遠景の地形や山が驚くほど正確なのは写真鏡で取り込んだため。それまでの江漢作品と画風が違うというのがニセモノ説の根拠のほとんどだが、「蘭法の写真の法−−日本始まりてなき画法」を使ったからには当然なのである。
                                                        江漢五十三次の成立

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江漢の富士山(晩年)
江漢 西遊日記挿し絵(1815頃清書)
江漢真筆 1812京都 江漢画集 1813頃

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代表的な日本の富士図 江漢は日本の伝統的な富士の描き方を非難し、写実で描くべきとの持論を持っていた。
蕪村
谷文晁
渡辺華山
英一蝶

円山応挙

月僊

木村探元
蕭白

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