京都のまとめ           まとめ   目次へ            
江漢図と広重図はまったく違う図。 江漢図は京都御所の正確な写生。 広重図は東海道名所図会三条大橋のコピー
江漢図は、(写真鏡による)京都御所の正確な写生
1812年、江漢は京都に6ヶ月以上滞在し、御所をゆっくり写生する時間は十分あった。
 江漢は京都で写真鏡を入手し、京都→江戸の旅で使用。この京都御所は日本第1号の写真鏡作品であろう。
  
広重図は、東海道名所図会や伊勢参宮名所図会のコピー。
@三条大橋、東海道名所図会のコピー。橋桁は秀吉の作った日本最初の石橋だが、広重は木の橋で描いてしまった。
広重は京都を見ていないという強力な証拠で、美術界も認めている。
 
A橋の上の京都らしい人物(日傘を差した武士、公家の女性戸お供)は、伊勢参宮名所図会からの転用
   
B背景の山は、なだらかな東山ではなく、反対方角の険しい西側の山々(嵐山、愛宕山、鞍馬山)を想像で描いた。
東海道名所図会は京都スタートの旅。広重五十三次は京都ゴールの旅)・・・東海道名所図会は京都の版元から出版

実際には、三条大橋からこれらの険しい西の山は見えない。
 
以上から広重は京都の人物何一つ見ていない。すなわち広重は京都に行っていない。※
広重が東海道を旅したにしては、道中の写生図が少ないという疑問が最初からあり、「団体行動の制約のため十分な現地写生が出来なかった」などと、言い訳されていた。
しかし京都到着後については、この言い訳は通用しない。
広重がお馬行列に参加していれば、八朔に間違いなく間に合うよう余裕を持って日程が組んであるので、少なくとも5〜7日の京都見物の自由時間が取れたはずである。  
★お馬行列は毎年7/7〜7/9に江戸発(石井本陣日記)→→京都着は7/23〜7/25のはず
★お馬行列一行の京都での宿舎は 中島町 (三条大橋と三条小橋の間) 三条大橋から、わずか数百メートルの場所
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